眼に見えないクサリ

新型コロナウイルスが世界中に蔓延しはじめて、すでに1年半以上がたつ。いまだに収束する気配はないし、多くの人の心には眼に見えないクサリが巻きついたまま、何らかの制約を受けているかに思える。私も例外ではない。

コロナ前のような「100%の全開」というのものが、精神的にも肉体的にも与えられていないような、捉えようのない縛りがある気がしている。それはコロナが人間を変えたというより、個人が自分たちの考えと行動を矮小化させたことの結果なのかもしれない。

もちろん誰もが感染したくないと思っているので、他者との外食を控え、大勢で集まることも控え、手洗いや消毒に気をくばっている。こうした動きは多くの方にとってはすでに「日常」になっているだろうが、ブレークスルー感染とは逆の意味での「日常」をブレークスルーして、以前のような何の拘束もない生活を実践したいという欲望がないことはない。

ただそうした欲求が強くなっても、マスクを外して人ごみに入り込み、酒場を何軒もハシゴするわけではない。ある意味で冒険ができなくなっている自分がいることに気づくし、そうした自己制御が少しずつ心を小さくしているようにも感じる。コロナウイルスへの危機感もあるが、中長期的にはこうした心の矮小化の方が根が深いようにも思う。

White flags:67万人の命

from twitter

米首都ワシントンのナショナル・モール(緑地公園)に17日、67万本の白い旗がはためいた。新型コロナウイルスで命を落とした方々に哀悼の意をあらわすためで、昨年に続いて2度目である。

昨年は26万7000本。ワクチン接種が進み、年頭から感染拡大が抑えられたかに見えたが、米国内の新規感染者は過去2カ月ほど、再び増え始めている。

9月17日の新規感染者数は1日で16万5465人。日本が米国の感染者の波を追随しないことを祈りたい。

新しい局面:新型コロナ(49)

新型コロナウイルスが大変やっかいな感染症であることは、いまさら述べるまでもないだろう。強力な感染力、変異株の出現、ワクチン接種後のブレークスルー感染など、まったく気を抜けない。

今朝、ネットで世界のニュースを読んでいると、イスラエルが4回目のブースター接種を計画しているとの報道があった。イスラエルはワクチン接種については世界の先頭集団にいる国で、今夏までに感染者は大幅に減っていた。

他国と比較すると早い段階で2回のワクチン接種がおわり、6月中旬にはマスク着用義務が解除されていたほどである。8月末時点で12歳以上の国民の78%が2回のワクチン接種を終えていた。

だが8月下旬から、ふたたび感染者が増え始めてきた。8月は1日100万回におよぶ3回目のブースター接種が行われていたにもかかわらずである。

というのも、ワクチンの予防効果が2回の接種後、下降してきていることが数字に表れていたからだ。1回のワクチン接種による予防効果は5〜6カ月間しか続かないとの見方が説得力を持ち始めている。さらに新たな変異株の出現可能性もある。

今後は半年から1年に1回はワクチン接種が必要になるかもしれない。同時に、マスク着用はもちろん手洗いや他者との間隔等、これまで通りのコロナ対策の継続は言うまでもない。

ジジイらしさか・・・(2):新型コロナ(48)

8月5日に当ブログで書いた『ジジイらしさか・・・:新型コロナ(45)』の続きである。

8月4日にモデルナ社製のワクチンを接種してから4週間後の9月1日、前回と同じ会場で2回目を接種してもらった。1回目の接種後、ほとんど副反応が出なかったと書いたが、2回目は誰に聞いても、多くの文献を読んでも「1回目よりも副反応の頻度が高い」ということだったので、今日(2日)は覚悟して仕事を休みにしておいた。

注射を打ってくれた女医さんに「2回目なので、副反応は覚悟しておいた方がいいですね」と聞くと、「可能性は高いと思います」と返してくれた。

ところが、である。朝起きて、熱っぽさもなければ、筋肉痛や関節痛、頭痛もない。体温を計ると36.4度と平熱である。ただ注射を打った局部に触ると痛い。それから1回目と比較すると、少しばかりボーッとしている。午後になっても熱はないが、ボーッという倦怠感は残っている。

厚生労働省の研究班の副反応調査をみると、モデルナ・ワクチンの2回目の接種を受けた翌日、発熱があった人は75.7%。翌々日は22.3%となっていた。また、倦怠感は翌日が84.7%で、翌々日が47.6%だった。

ただ都内の医療機関がネット上で公表しているモデルナ接種(2回目)の年代別・性別の症状をみると、10代での発熱は男女共に100%で、30代では男性が41.7%、女性が48.2%。しかし60代になると、男性の発熱の割合は9.4%、女性が7.7%と10人に1人もいないことがわかる。

1回目の接種もそうだったが、ジジイになっていいことがあるというのはこういうことかと、自分を納得させている。

ロックダウンという選択:新型コロナ(47)

菅氏の最近の言動を眺めていると、相変わらず判断力、指導力、そしてモノを前へ進めていく行政力が欠如していると言わざるを得ない。コロナ禍のなかで、それはさらに明白になっている。

酸素ステーションは必要だろうが、それよりもなによりも感染の広がりをまず阻止することが最重要である。社会が直面する問題を冷徹に分析し、最善の方策を考え、解決策を指示していく必要があるが、菅氏にそれができているとは思えない。一国の指導者として、また政治家として不適格者であることは昨年からわかっていたが、ここにきて能力不足が明らかになってしまった。

やることといえば緊急事態宣言の拡大と人流抑制の「お願い」であって、いまは強制をともなう施策が必要な時であると考えるが、ロックダウンを行うつもりはないようだ。ロックダウンはすでに世界の国々で行われ、学究的にも研究されていて、短期的に効果があることは複数の国家で示されている。

だが菅氏は日本には馴染まないと実施する前に決めてしまっている。明言するならば「もうジジイは引っ込んでいろ」と言いたい。いまのように日々新しい問題が浮上し、従来のやり方が通用しない流転の激しい社会では、柔軟な対応力がカギとなる。申し訳ないが「視点の定まらない眼つき」の政治家からは、何が何でも「コロナを撲滅します!」という覇気を感じられない。

極めて新しい事象には、従来とは違うまったく新しい手法を採用し、施行していく行政力が求められるが、いまの菅氏にそれがあるとは思えない。歯がゆさを通り越して、憤怒がこみ上げてくる。