再び、政治とカネ

またしても永田町が政治とカネで揺れている。揺れているといっても大揺れで、当事者にとっては大地震といっても差し支えないだろう。よからぬカネを受領したことで、自分の政治家としてのクビが飛びかねない。

「権力はほしいしカネもほしい」という人間の性(さが)が政界に渦巻いていることは誰しもが知る。国家の政治を任されている人間としては、そこでブレーキをかけてしかるべきなのだが、「あの人も貰っているので俺も、、、」という論理からか、自分だけブレーキをかけて流れを止めようとはしない。

もちろん政治とカネの問題はなにも今に始まったわけではない。連綿と続ている。私がアメリカから日本に戻ってきてすぐの2007年夏にも同じようなことがあった。当時の安倍内閣(第一次)の閣僚がカネの問題や失言でつぎつぎと辞任し、同年夏の参院選で自民党は大敗。その後、安倍氏は健康問題もあり辞任したが、あれから16年がたった今でも政治家の金銭への執着と醜行はほとんど変わっていない。

それではアメリカの政治家はカネの問題をクリアしているのか。そんなことはない。

アメリカでは選挙運動をする時、200ドル以上の献金を受けた時は連邦選挙委員会(FEC)に報告しなくてはいけないが、いくつもの法律の抜け穴をつかって巨額の選挙資金を集金している。それは非公開であるためシークレットマネーと呼ばれ、2022年の中間選挙では2億9500万ドル(約429億円)もの巨費が闇の中で集金されたことがわかっている。こうした闇のカネが選挙や政治家に流れ込みつづける限り、民主主義は脆弱なままだ。特定の利益団体や企業、個人がアンダーグラウンドで強い力をもってはいけない。

一般有権者の声が何よりも優先されるべきなのだが、時代を経ても同じ過ちが繰り返されるのは、人間がいつの時代でも完璧ではないからなのだろうか。

無気力、無関心、無責任

昨晩、NHKの「アナザーストーリーズ」を観ていると、懐かしい言葉が出てきた。三無主義である。

この言葉を耳にしてすぐにピンとくる方は、私と同世代かそれ以上の方なのだろうと思う。1960年代に活発化した学生運動が下火になり、若者は多くのことに無気力になり、さらには無関心、無責任も加わって三無主義に陥った。そこに無感動が加わって四無主義という言い方もされた。

最近、20歳前後の若者と話をすることがほとんどないので、今の若者の心のありようは熟知しないが、いつの時代にも三無主義や四無主義に陥っている人たちはいるのだろうと思う。それは若者だけではない。精神的な高揚がなく、惰性で生きているような人たちは三無主義に包まれる傾向がある。短期的なものであればいいが、しばらく泥沼に足を取られて抜けられないような精神状態であれば、意識的に泥沼から自身を浮揚させなくてはいけない。

いま私が心中で望むのは、60年代の反体制運動のような、社会を揺り動かす潮流がまた生まれないかということだ。三無主義などとは言っていられないくらいの激動を本当は期待していたりするし、また目の当たりにしたいと思っている。

日本の女性首相はいつになる

イタリアで25日、総選挙が行われて極右政党の「イタリアの同胞」が勝利したことで、同党のメローニ党首が次期首相になる公算が高まった。そうなればイタリア初の女性首相ということになる。

昨日、日本外国特派員協会(FCCJ)で仕事をしている時、仕事仲間のイタリア人女性記者(I)とスイス人記者(S)と私の3人で当件について話しあう機会があった。S記者がI記者に言葉を投げた。

「初めての女性首相が誕生して、感慨深いものがある?」

するとI記者は「全然!」と、即答した。私は「それは彼女(メローニ氏)がコンサバだから?」というと、I記者は「コンサバではないんです。極右の人間なのです。だから女性が首相になっても少しも嬉しくない」と本音を述べた。

私は「政治思想を抜きにしたら、女性を国家のトップにするということは、ある意味で価値があることかと思う。なにしろ日本はまだできていないし、たぶんあと10年たっても日本で女性首相は誕生しないかもしれない」と述べた。

するとS記者が、「米国もできていない。女性の社会進出という点ではどの国よりも進んでいるようにみえても、いまだに女性大統領を選出できていない」と言った。

それは女性の頑張りの必要性と同時に、「男社会」が政界に見えない壁を張り巡らせているということでもあり、まだまだ世界には取り組まなくてはいけない課題がたくさんあることを思い知らされた。

悲劇のあとの選挙

7月8日に安倍元首相が射殺され、政界関係者の間には重い空気が漂っている。

犯人の山上徹也容疑者は、母親が宗教団体にのめり込み破産しており、その宗教団体と安倍氏が深い関係にあったことで「安倍暗殺」へと動いたと言われる。ただ母親の破産と安倍氏の関与は明らかではなく、山上容疑者はほとんど自分勝手な思い込みで犯行に走る。これほど迷惑で、無責任な犯罪はない。極刑になる可能性は十分にあるだろう。

こうした暗いムードの中で今日、参議院議員選挙が行われた。私は今だからこそ一票を投じなくてはいけないと思い、選挙に行ってきた。

安倍氏が殺害された直後、多くのメディアは選挙の時期だけに「安倍氏の言論を封殺する行為は決して許されることではない」と記した。だが先にも触れたが、犯人は安倍氏の言論を封殺するために殺人に及んだのではない。母親の経済的困窮の原因が宗教団体にあり、その団体と安倍氏の関係が密だったと考えて、事実関係が不確かなまま怨念を抱いて犯行にいたるのだ。

その意味で、安倍氏の死は本当に痛惜の念に堪えない。

結局、自民党に落ち着く日本

衆議院選挙が終わり、けっきょく自民党が絶対的安定多数といわれる261議席をものにした。衆議院の定数が465なので233議席を奪えば単純過半数になるが、それよりもはるかに多い議席を奪うことになった。

選挙前は自民党がかなり議席を減らすとも言われていた。実際は15議席を減らしたが、261までもっていったということは、やはり多くの国民が意識的にも無意識の中にも自民党による「イマの日本」を肯定していたということに他ならない。それは過半数の有権者が岸田首相を肯定したことにもつながるし、現状を大きく変えてほしくないとの思いが心の奥底にあったからなのだろうと思う。

実際に投票所で候補の名前を書くときは、それぞれの小選挙区で出馬している人を選ぶわけだが、有権者がどこまで候補一人ひとりの主義主張を勉強して投票所に行っていたかは微妙なところである。候補の人となりや政治理念を知らずに、単にどの政党に所属しているかで候補を選ぶ傾向がいまでも強いはずだ。

そうなると、立憲民主党が中心となった野党連合に政権を任せるよりも、これまでの自民党議員(候補)を選んだ方が無難であり安泰であるとの考えが優勢になる。先進国と比較すると国民の平均収入はけっして大きく伸びているわけではないが、国内で暴動が起きているわけでもない し、社会は平穏なままである。コロナも収まりつつある。

こうした状況下であれば、かつては自民党政権の下で高度経済成長を達成してきただけに、ふたたび「勢威を誇る」ことは可能だろうとの期待が市民の心中にあるのではないか。今回の選挙結果から、そんな思いが去来している。