「クシュン」の季節

普段の生活の中でくしゃみがでることはたまにあるが、私の場合、風邪の前兆や鼻がむず痒いときにクシュンとなるのは2回までだ。ただ3回連続という時があり、それが花粉症のサインである。

あらためて述べる必要もないだろうが、花粉が体内に入るとリンパ球が花粉に対抗するために IgE抗体をつくる。 IgE抗体はマスト細胞という細胞にくっつき、ヒスタミンという化学物質を分泌して花粉を体外に出そうとする。それがくしゃみや鼻水、涙になるわけだが、近年になって花粉症の人は以前よりも増えているという。

ウェザーニュースが 10,567人にアンケートをとった結果、55%の人が花粉症と回答している。 NHKの調査では、1998年には19.6%だったが2008年には29.8%に、2019年には42.5%となり、そして現在は半数以上の人が花粉症になっている。 ただありがたいことに、久光製薬がだしているアレグラFXが私には大変効いており、1日2回服用することで症状はほとんど出ない。しかし、ひとたび花粉症になると、一生つきあっていかなくてはいけない可能性が高く、この時期は薬が手放せない。

消えたいと思うあなたへ:天声人語

「14歳のとき、ぼくの孤独は極まっていましたー」

こうした書き出しではじまる朝日新聞の天声人語が1月31日に載った。

多くの方は辛い思いや孤独感に苛まれたとき、その場から逃げたいと思ったことがあるはずだ。そうした時に、教科書的なアドバイスは「冷静に状況を分析して、立ち向かえ」「あなたなら乗り越えられるはずだから頑張って」といった前向きなものだろうかと思う。

ところが2日前の天声人語は違った。写真家の齋藤陽道氏の言葉がつづられており、絶えられない状況に追い込まれた時は「逃げてください」というアドバイスがおくられている。というのも、齋藤氏はもともと聴覚に障害があり、同級生に陰口をいわれたり無視されたり、ものを盗まれたりしてきた。「当時のぼくにとって、教室は生き地獄でした」と述懐する。消えたい、死にたいと思うことがよくあったという。

そしてある日、普通校からろう学校へと「逃げた」。それまで避けていた手話を学び、少しずつ未来が開けていったというのだ。ただ昨年、日本では子供の自殺者が過去最多になっており、ひとりひとりの状況を考えると胸が締めつけられるという。生き地獄の状況をよく知る齋藤氏だからこそのアドバイスは優しさに溢れている。

「逃げた先にはきっとあなたを救う未知の言葉がある。勇気をもって、時間をかけて、逃げていってください」

大谷翔平の英語

久しぶりに大谷翔平の英語を聴いた。 全米野球記者協会(BBWAA)ニューヨーク支部が25日(日本時間26日)に主催した夕食会で、本人は欠席したが英語のビデオメッセージが流された。

3分ほどのスピーチだったが、 一般の人たちからの評価 だけでなく米メディアの評価はたいへん高く、惜しみない賛辞がネットに溢れた。散見したかぎり、「素晴らしいスピーチだった。何しろ英語が以前よりも格段に上達している。そして彼の人間性が溢れる内容で感心した」「 He’s such a legend (彼は伝説だ)」「素晴らしい良心をもった人」といった肯定的な内容ばかり。

英文を読みながらのスピーチだったが、つっかえたり、言い直したりすることはなく、明らかに英語が自分のものになってきていることがわかる。もちろんネイティブの発音とまではいかないが、はっきりとした口調で正確にものを伝えるという点では申し分ない。

大谷翔平がポスティング・システムでロサンゼルス・エンジェルスに移籍したのは2017年のオフである。18年には二刀流の活躍をし、日本人としては史上4人目の新人王に輝いている。大谷が野球だけでなく英語の力も伸ばしてきたことは驚嘆せざるを得ない。

長くアメリカにいても、英語がうまくならないと話す人は大勢いる。だが、大谷は本業の「野球力」だけでなく「英語力」も驚くほどのレベルで伸長させた。重要で入り組んだ話はいまでも通訳をつけているが、そのうちにすべてを英語でこなせるようになるかもしれない。本当に脱帽である。

「屈辱」に支えられてきたイチロー

イチローが日本時間22日、 日本人初の米国野球殿堂入りを果たした。 大リーグに移籍したとき、「(自分が殿堂入りすることを)地球上の一人も想像していなかったでしょう」と述べ、殿堂入りを大変光栄であると喜んだ。

イチローの成し遂げてきた業績に文句をつける人は誰もいないだろう。野球選手としてだけでなく、一人の人間としても賛辞がおくられてしかるべきである。ただイチローは以前、「屈辱によって支えらえてきた」という言葉を口にしたことがあった。どういうことなのか。

2013年のことである。その年、イチローは4000本安打を達成する。しかし、記録を打ち立てた10日後、イチローは先発から外される。そして試合後半に代打として起用されるのだ。試合はヤンキースが大きくリードしていた場面で、他のレギュラーメンバーはすでにベンチで休んでいた。

その場面でイチローは監督から代打を告げられる。本来であれば新人選手か控え選手が登場する場面である。4000本安打を打った選手の役回りではない。イチローは言う。

「これ以上の屈辱はなかった」

イチローの長い選手生活は、こうした思いの連続によって支えらえてきたというのだ。スポットライトが当たることは多かっただろうが、同じように辛く、苦い経験も数多く経験してきている。そうした屈辱を跳ね返す力こそがイチローの選手生活を支えたということである。

風雪に耐えなければいけない時期というのは誰しもが経験する。それが将来への糧になると考えれば、乗り越えていけるはずだ。さあ、前を向いて生きてゆきましょう!

小林克也という人物

今日(1月14日)の朝日新聞朝刊の6面に小林克也氏 (83) の記事がでていた。今日から上・中・下と3回に分けて「小林克也さん:英語と歩いた83年」という短期連載がスタートし、第1回目は中学・高校時代の話。記者の質問に答える形での一人語りで、どうして英語がうまくなったかを自己分析している。

私が中学時代、ラジオを聴くようになってすぐに「小林克也(久しぶりの小林克也)」というDJの名前を知った。日本人にしてはあまりにも英語の発音が素晴らしいので、アメリカ育ちであるとずっと思っていたが、日本国内で培った英語だった。それから、どうやったら彼のような発音を手に入れられるのか、感心すると同時に羨望の眼差しを向けながらラジオを聴いていた。

彼は中高時代、FEN(今のAFN:進駐軍放送)をずっと聞き続け、耳をならしていたので発音がよくなったと述べている。

「授業で僕が英文を音読させられると、隣のクラスの子たちがわざわざ聞きにくるということもありました」

高校2年時、英語部の部長になり、新入生に「教科書の英語もいいけど、プレスリーを聴いて英語を覚えたら、しゃべれるようになるよ」とアドバイス。すると50人ほどの部員数だったのが、一気に200人も増えたという。そしてこう述べる。

「英語の歌を覚えることは英語を話すことに通じると強く感じています」

私は25年もアメリカにいたので英語が話せて当たり前だが、渡米前はやはり英語の歌、特にビートルズの歌を暗記して歌ったものである。原体験も含めて、小林氏の言い分には納得させられる。