大親分に哀惜の意

小松政夫氏が亡くなった。78歳。昨年、肝細胞ガンが見つかり、入退院を繰り返していたという。昨年7月1日、私はラジオ番組でご一緒したのが最初で、最後だった。

スタジオでは終始淡々としたしゃべりで、デンセンマンやしらけ鳥音頭の思いが強かった私には「落ち着いたおじいちゃん」という印象であった。それでも私にとっての小松政夫氏はずっと「涸れない泉のように笑いが溢れ出てくる人」であり、天国に行ってもきっと笑顔を振りまいているのだろうと思う。

ご冥福をお祈りいたします。

憎悪という毒

多くの人にとって、それは憎しみと呼べる感情なのだろうと思う。

そう言わざるを得ないほど、いまのアメリカは「ドナルド・トランプ」という人間を基軸にして、多くの国民が邪心を宿している。世界中と言ってもいいかもしれない。

トランプ氏を憎む人間がいると同時に、トランプ氏を負かしたバイデン氏と民主党の人間に敵意を抱いている人たちも大勢いる。大統領選挙はいちおうバイデン勝利という結果がでたが、双方が相手側に対して持ち続ける負の抱懐はそう簡単にはきえない。

憎しみというものは人間が持つまっとうな感情の一つで、否定的なものではあるが、ほぼ避けられない心の発露でもある。憎悪をほとんど抱かない人もいるが、その人は瞬時にして憎しみという感情を処理する術を心得ているともいえる。

21世紀のいま、世界中の研究者が憎悪について研究を深めており、数え切れないほどの論文がでている。憎悪を湧き上がるままに受け止めた方が幸福感が高い、という研究結果もある。憎しみを心の中にとどめて我慢しつづけることは、むしろ幸福感を阻害するという考え方である。

ただ私が危惧するのは、憎悪という感情はさまざまなことに自分流のベールをかけてしまいがちになるということである。それは真実を見失うことにつながる。冷静で、理知的な判断ができないくらいの憎しみは「毒」と言ってもいい。

いま多くのアメリカ人に、解毒剤が必要な時かもしれない。

ふとした思い・・・

私はいま63歳である。フリーランスのジャーナリストとして独立してから30年になる。フリーの立場なのでもちろん定年はなく、仕事はこれからもずっと続けていられるが、周囲を見渡すと、いつの間にかほとんどの社会人が私よりも年下になっていることに気づき、愕然とさせられることがある。

私は自分の年齢をほとんど気にせずにこれまで仕事をしてきたが、最近になって、仕事仲間と一緒にいたりオフィス街を歩いているときに「最年長かもしれない」と思うようになった。それだからといって仕事を辞めるわけではないが、本当に「いつの間にか」という言葉を強調したいくらい知らない間に歳をとってきた感じがある。

会社員ではないので年次を意識する縦社会に身をおいていないこともある。だが老年というカテゴリーの中でどこまでやっていけるのかという、つかみようのない焦燥が訪れたりする。

記憶力も落ちてきた。妻と以前に行ったレストランの名前どころか、行ったことさえ覚えていないこともある。「認知症か」という恐怖があたりを浮遊し始めるのも私の世代だろう。いまの地点から今後、どこまで飛躍できるのか。自分を試すという意味で、これからは人生を楽しむしかないとも思っている。

ある昼下がり

JR有楽町駅前にある三省堂に立ち寄った。特定の書籍を買おうと思っていたわけではない。ぶらりと立ち寄っただけである。あの店舗は1階に雑誌や新刊本が置かれ、2階には文庫が並んでいる。

「そうだ。あの文庫はあるだろうか」

あの文庫というのは、私が5年前に文春文庫から出した「 エイズ治療薬を発見した男 満屋裕明 」という本である。5年前の本なので書棚にはないだろうと思っていた。文春文庫のコーナーにいき、アルファベット順に並んだ著者の名前を追う。は・ひ・ふ・へ・・・ほ。

「あった」。心の中に小さな笑顔がデキタ。本を手にとる。いままたその本を読むことはないが、そっと表紙のタイトル部分を人差し指でなぞった。

満屋先生は今年もノーベル賞生理医学賞の候補の1人に挙がっていたのだろうと思う。だが今年の受賞者は、C型肝炎ウイルスを発見した3人の研究者だった。受賞式の2カ月ほど前、NHKの記者が私のところに電話をかけてきて、「満屋先生がノーベル賞をとった時はコメントをください」と言ってきた。

私はほのかな期待を抱きながら待ったが、来年以降という結果になった。結果発表から何日かたったあと、満屋先生と電話で話をする機会があった。先生は相変わらずイチ研究者として、いまは新型コロナウイルスの治療薬開発に邁進されていた。

受賞に関心がないはずはないと思うが、ほとんど眼中に入れずにいまでも一人の医師として、研究者として研究に力を注いでいる先生の顔が浮かぶと、眼の奥がギューーと熱くなった。こういう方にこそノーベル賞を受賞してほしいとあらためて思った。

フェリックス・ヴァロットン

丸の内にある三菱一号館美術館で開催していた『画家が見たこども展』が今日で終わる。私は少し前に足を運んで、ポスト印象派にあたるナビ派の作品を観てきた。

その中でもヴァロットンの作品が以前から好きで、誰しもが抱える心の奥底の闇を絶妙なタッチで表現できる力に魅了されてきた。

この作品は「女の子たち」というタイトルで、1893年に創られた木版画である。今回、写真撮影が許された作品の一つである。描かれた女子たちの表情が絶妙で、決して素直な目をしていないところが興味深い。

実は三菱一号館美術館は2013年にも『近代への眼差し:印象派と世紀末美術』という展覧会を開き、ナビ派の作品を展示している。その時の自分の感想を読み返すと、いまとほとんど同じことを感じているので少し抜粋したい。

《多彩な色と光を駆使した印象派とは対照的に、ヴァロットンやルドンの作品には人生の暗部をモノクロで表現した悲哀があり、同じ時期のフランスに、ここまで真逆の心模様を表現しようとした画家たちがいたのかと思い知らされるのである。

ルノアールの肉感的な裸婦画を観たあとにルドンの石版画を眺めると、陽光の差すセーヌ川の水遊びのあとに、陰鬱な自室にもどって現実の生活に対面するような落差を感じざるをえない。いつの時代にも陰と陽があるように、印象派の絵画で溢れかえっていると思っていたフランスの19世紀後半にも、物憂げな思索を表現したアーティストがいたのである。

ヴァロットンの木版画は秀逸である。日本のアニメの源泉に触れるような気がした。》