定年をなくそう!

今日(2月3日)の朝日新聞朝刊7面に、ある中堅商社が定年を実質的に廃止するという記事が出ていた。

大変喜ばしいニュースであると同時に、「ようやくか」との思いもこみ上げてきた。21世紀になってもいまだに定年があることに、個人的には違和感を覚える。今日のブログは少し長くなるが、最後まで読んでいただければ幸いである。

まず朝日の記事を簡単に紹介させて頂きたい。化学品や情報システムなどを扱う三谷産業(金沢市)が「無期限の継続雇用制度」を今年4月に設けるという内容だ。日本国内にあっては、リベラルでかなり前向きな考え方の企業である。健康で体力に問題がなく、本人が働き続けたいのであれば無期限で働けるようにする(定年をなくす)というのだ。素晴らしいことである。

同社がこの決断にいたった背景を説明したい。昨年3月、政府はある法律を成立させた(施行は今年4月)。「改正高年齢者雇用安定法」という名前(いつも思うが官僚はもっとキャッチ ー で覚えやすい法律名を考えるべきである)で、定年を①廃止、②延長、③定年後の継続雇用、の3つから選択できるようにする内容で、社員を70歳まで働けるようにしたものだ。

だが三谷産業は法律施行に合わせて、定年を実質上廃止することにした。70歳ではなく、はっきり言えば死ぬまで働けるということである。多くの方はこの決断を「英断」と捉えるかもしれない。しかし、冒頭で「個人的に違和感を覚える」と書いたとおり、私にしてみると「ようやく」でしかない。

またアメリカとの比較で恐縮だが、アメリカには定年というものがない。少なくとも過去50年以上にわたって定年はない。実は1967年に、年齢を理由にして社員を解雇することは差別にあたるとして、「 雇用における年齢制限禁止法(The Age Discrimination in Employment Act) 」という法律ができたのだ。これによって、「あなたもう65歳だから辞めてください」と、年齢を理由に社員を解雇できなくなった。つまり定年の廃止である。

それでも現実的には、アメリカ人は 65歳から70歳くらいになると自分で退職の線をひいて、仕事を辞める。日本と違うのは、会社から「辞めてください」と言われて退職するのではなく、自らが進退を決められるということだ。

人によっては黒柳徹子さんのように、80歳を超えてもバリバリ現役で仕事をこなせて、かつ自分でも仕事を続けたいという方がおり、こうした人たちに対して「退職年齢がきたから辞めてください」というのはあまりにも忍びないし、社会にとっての損失であるとも言える。

ただアメリカ企業も天使ではない。年齢を理由に解雇できないので、高齢になって効率的に業務ができない社員に対しては、他の理由で解雇を言い渡すことはある。この点ではいまでも訴訟問題が起きていたりする。それでも基本的に、経済的な理由で仕事を続けたいという人や、仕事を続けた方が健康でいられるという人はずっと仕事をしていられる。

日本も当然、そうあるべきだろうと思う。だから「定年をなくそう!」なのである。

またしても涙(3)

from Facebook

この写真が撮られたのは2018年のことである。

首都ワシントンの繁華街、ジョージタウンに孫娘と映画を観にきた帰りの光景だ。バイデン氏は1人のホームレスの男性に近づいて声をかけた。写真を撮られていることは知らず、しばらく男性の話に耳を傾けていたという。

誰もみていない時に、こうしたことが普通にできる人こそがアメリカのリーダーになったことは大変よろこばしいことである。

不覚にも涙が頬をつたってしまった。

メガメディアの躍動

マスメディアというものがメガメディアという一回り大きいものに席巻されて随分時間がたつ。メガメディアという言葉が登場したのは20年以上も前のことで、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌といった旧来のマスメディアが、インターネットを中心にした情報通信・コンピューター技術を駆使したメガメディアに飲まれてしまうことは、誰もが予見できていた。

それはすでに数字に表れている。メディア広告費を眺めると、長い間テレビがラジオ・新聞・雑誌を大きく引き離してダントツの第1位だったが、2019年に初めてインターネットに抜かれた。インターネット広告の総額はすでに2兆円超であるが、テレビは1兆8000億円前後で近年はゆるやかに下降している。

それでもテレビはまだ元気があると言って差し支えない。しかし新聞・雑誌はいわゆるノーズダイブで、革新的な手法をできるだけ早く導入しないと、将来総崩れになりかねない。

テレビはすでにユーチューブとの同時配信を始めている。紙媒体でもユーチューブとタイアップした試みはあるがまだまだだ。新種のメソッドを創設して多方向から攻める姿勢をみせないと危ういかもしれない。これはいま現在、紙媒体で生きている人間に課せられた使命であるし、必須の取り組みである。

いまだにベストショットは撮れていない

今日、ネットである英文記事を読んでいると、感心させられるコメントに出会った。

「いまだにベストショットは撮れていない」

山に写真を撮りに行って「まだいい写真が撮れてない・・・」といったニュアンスではない。ティム・ペイジという元UPIの英写真家はいま76歳だが、50年以上のキャリアがありながら、いまだに人生のベストショットが撮れていないと呟くのだ。

ベトナム戦争もカバーしているペイジは、これまで約75万枚の写真を撮ってきた。それでもまだ自分が本当に満足できるショットは撮れていないという。

1965年、ベトナムにて。from Pinterest

彼の撮った写真は米首都にあるスミソニアン博物館などにも飾られているし、自分でも「私はかなりいい写真が撮れると思っている」と述べるが、同時に「もっといい写真が撮れるはずだ」との思いを抱き続けているという。

これこそが仕事をする人間のもつべき志であり、覚悟であり、矜持だろうと思う。

あけましておめでとうございます

2021年、丑年のイラストがワシントンから送られてきました

10代から20代にかけて、私は「どう生きるべきか」という問いに真剣に答えをだそうとしていた時期があった。だが明確な答えがでるわけもなく、考え続けながら生きていくしかないと思っていた。

それが社会人になって、経済活動に日々の生活の大部分が費やされるようになると、「どう生きるべきか」という哲学的な問いから「どう生活するか」という現実的なことにウェイトが乗るようになっていった。それは「思惟する」「思索する」といった、学生時代に好んだ精神活動からの離脱でもあった。自分としては「落ちた」という思いがあった。心の片隅にほのかな落胆を抱えたまま日々の仕事をこなし、気づいたらここまで来てしまったというのが実感である。

人生も後半戦に入って久しいいま、改めて「人はどう生きるべきか」という根源的な問いを投げてみたいと思っている。それが年頭の抱負である。