パチンコ、パチンコ

私がパチンコに狂っていたのは10代の頃である。ちょうど電動が入荷され始めた頃で、店によってさまざまだったが、手(親指)でも打てたし電動のハンドルを回すこともできた。

自慢のようになって恐縮だが、凝り性だったこともあり、私は高校時代に中古のパチンコ台を買って自室に置いてクギの研究をした。家族は「チンジャラチンジャラうるさあああい」と言ったので、家族がいない時に打つようにした。自分のパチンコ台があると、透明のガラスを開けてクギの向きを調整し、どういった角度であれば球がよく出るかを探ることができた。

すると町のパチンコ屋にいっても負けることがなくなった。時間があれば、店員さんが「ハイ、打ち止めです」と言うまで打てるようになった。台の選定も重要だが、正確に親指を使えるようになると、10発弾くと10発同じ場所に当てることができるようになるのだ。だから学生時代はパチンコで小遣いを得ていた。もちろん、私のパチンコ収支は生涯プラスである。

だがアメリカに留学してからはパチンコとは縁が切れ、過去40年くらいやっていない。だが今日、突然パチンコ屋の自動ドアを開けた。深い意味はない。突然、やってみようと思いたっただけである。

玉の買い方がわからなかったので、店員さんに訊くことになったが、最低の購入金額が1000円(たぶん)であることに驚き、あれとあれよという間に1000円がなくなっていたことに再び驚いた。

台の中央部分がスクリーンになっていて、クギの部分は両サイドにしかないので、本当によくわからないまま終わってしまった。それでも周囲を見渡すと、数千発をだして大きなバケツに積み上げている人もいる。いまでもパチプロはいるのだろうと思うと、少しばかり懐かしくなった。もちろん再度、狂うことはないと思う・・・。

政治家が本当にやるべきこと

今年1月28日の当ブログで、文藝評論家の小林秀雄と作家横光利一の対談について触れた (日本の政治が停滞しつづける理由)。今日、小林が違う対談でノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と語り合っているものを読んだ。

学生時代から小林のファンだった私はいまでも彼の書いたものをたまに読み返す。湯川は1981年に他界しているので、40年以上前に行われた対談だが、2人が語る内容には時代を超えた普遍性があり、いまだに納得させられることが多い。

小林は政治のイデオロギーの矛盾についてこう話している。

「なぜ現代の政治家がイデオロギーなどという陳腐な曖昧なものの力を過信するのか」と問いかける。そしてこう述べる。「民主主義だとか共産主義だとかという曖昧模糊としたイデオロギーをどうしてめいめいが掲げて争うのか、どうも僕にはよくわかりません。(中略)平和を保つ技術、政治技術の問題が重要であるとどうして政治家は考えないのか」

考えてみれば、しごく当然のことのように思える。小林は政治家が本来やるべきことは戦争を起こさない技術を身につけることであると説く。そして次のように断言する。

「政治は人間精神の深い問題に干渉できる性質の仕事ではない。精神の浅い部分、言葉を代えれば人間の物質的生活の調整だけをもっぱら目的とすればよい。そうはっきり意識した政治技術専門家が現れることが一番必要なのではないでしょうか」

真理を看破する力がここにある。

from Twitter

目を見張りました!

何に目を見張ったかと言えば、ある男性にである。

先日、ランチを食べに自宅近くの中華料理店に入った。いわゆる「町中華」である。私のテーブルの斜め前に、白髪を綺麗に整えた70代半ばと思える男性が文庫本を読みながら座っていた。

すでに大ジョッキの生ビールを注文していて、一人で飲んでいる。ランチに一杯やることは悪くないが、大ジョッキを昼間からグイグイやっていたので、少しだけ「飲むなあ」という思いがあった。すぐに男性のところに水餃子が運ばれてきた。ウェイトレスが言った。

「ハイ、水餃子2人前」

私は「この人は水餃子とビールをランチにしているのかもしれない」と勝手に思った。大ジョッキが空になる頃になって、ウィイトレスが今度は焼酎のボトルと氷を運んできた。私はまた「昼間から飲むなあ」と心の中で呟いた。

斜め前の席だったので、視界にすべてが入る。男性は水割りではなくオンザロックで焼酎をグイグイやり始めた。顔色ひとつ変えずに飲んでいる。アルコールに強いことは歴然としているが、私が目を見張ったのは、餃子が食べ終わった頃に大皿の八宝菜とドンブリご飯、そして味噌汁と杏仁豆腐が運ばれてきたことだ。

その間も男性は文庫本も読みながら、ひたすら飲み、食べ続けていた。しかもどうみても私よりは高齢であるし、まったく太っていないのだ。やってくれるものである。しかも飲みっぷりだけでなく、食べっぷりもいいので、久しぶりに人の食べる姿を見て感動を覚えたほとである。

帰り道、あの人に『飲みすぎはよくない』といった陳腐な忠告は必要ないと思った。すべてを理解していて、このままでいいという達観があるように思えたからである。参りました!

マスクはもうしない?:新型コロナ(31)

変わり身の早さがアメリカの特徴といえば言えなくもないー。

今月2日、アメリカ南部テキサス州とミシシッピ州の両知事がマスク着用を終わらせて、商業活動の全面再開に入ると発表した。

このニュースを耳にして、「慌てすぎでしょう」という言葉が口からでたが、両知事は本気なのだという。すでに知事令が出ている。アメリカでは日本よりも早くから一般市民へのワクチン接種が始まっているが、医療関係者からはマスクを付けずにコロナ以前の生活様式に戻ることは時期尚早であるとの憂慮が示されている。

両州ではレストランなどの一般店舗の入店制限がなくなるが、今後は変異種が蔓延する可能性が高いことから、ワクチンを打ったとしても警戒しつづけなくてはいけないことは子どもでもわかる。

しかも両州の新規コロナ感染者はゼロに近くなったわけではないのだ。調べると、テキサス州の新規感染者は7240人(3月2日)で、ミシシッピ州(3月1日)は199人だった。特にテキサス州は感染が収束したとは言えず、この時期にマスクをつけず、元の日常生活にもどることは元の暗闇に舞い戻ることに等しいかもしれない。