別世界の魔法

いつもは政治家やジャーナリストなど、絶えず眉間にしわを寄せているような人たちが私の周囲には多いが、今日ばかりは少しだけ華やかな世界をのぞいた。

国際短編映画祭「ショートショート・フィルムフェスティバル&アジア」の授賞式に招待されたので、胸にポケットチーフを入れて出かけてきた。渋谷のヒカリエ・ホールには 普段、映像で観る芸能人があふれていた。

会場に入る前に、四畳半くらいの広さがあるエレベーターに乗った。そこでまず、叶姉妹の妹と乗り合わせた。もちろん知り合いではないが、なんとなく視線を投げてしまう。 大きなサングラスをしているが、どこをどうかくしても叶姉妹であることは隠せず、思わず頬がゆるんでしまう。

自宅で招待状を眺めたときに、藤原紀香、相武紗季といった名前が読めたので、フンフンと思っていると、妻が韓国人俳優チョン・ウソンの名前を見つけて「写真撮ってきて」。夫婦そろってミーハーだったことがよくわかった。

案内状には書かれていなかったロックバンドGlayや千原ジュニアといった多くの芸能人がいて、少しだけ別世界を体験することになった。

授賞式では数本のショートショート・フィルムが上映され、最優秀作品賞にはイラン人監督の 『キミのモノ』が選ばれた。

ただ、会場を後にして仕事場にもどる途中に「別世界の魔法」はすぐに解けてしまった。(敬称略)

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左から冲方 丁(うぶかた・とう)、藤原紀香、奥田瑛二、レザ・ファヒミ監督、河瀬直美、チョン・ウソン

ある作家のフレーズ

「作家では、誰が好きですか」

先日、ある人から訊かれた。迷いもせず「開高健(かいこう・たけし)」と答えていた。

最近の作家の作品もよく読むが、誰が好きかという質問を受けると、学生時代に自分が心酔した作家が先にくる。

開高の作品はほとんど読んだが、そのなかでも『夜と陽炎』という自伝小説は繰り返し読んでおり、先週からまたバッグの中に入っている。日本文学大賞を受賞した作品で、音の記憶をたどりながら半生を描いた稀有な小説である。

私にとって開高は、小説家と詩人の中間に位置するような人で、長大な作品のなかに眼を2倍ほども開かされるようなフレーズがさりげなく配置されていたりする。

ユーモアに溢れた文章を書くという点でも、たいへん好感が持てる人だ。たとえば『夜と陽炎』のなかにサルトルに出会ったときのことが書かれている。

「サルトルにパリで会ってみると、子どもが大人の外套をひきずるようなぐあいに外套を着込んだ小男で、ひどいガチャ眼で、右の眼に挨拶していいのか、左の眼に挨拶していいのか迷うくらいであった」

こうした表現にであうと、頬が緩んでしまう。ただ作家の好みほど多岐にわかれるものはない。59歳で逝ってしまったことが悔やまれてならない。

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死なせてくれない社会

このブログを定期的に読んで頂いている方は、「今月は本数が少ない」と思われているかもしれない。身内に不幸があり、ブログだけでなく連載原稿も何本かパスさせて頂いた。

「人は死を選べない」とよく言われるが、自殺以外、どこでどう息を引きとるかは自分で決められない。それが人間の運命であることはわかっているが、「最後の選択」は自らが決められないものなのか。

80歳を優に超えて十分に人生を楽しんだという実感があれば、「管につながれてまで長生きしたくない」と、多くの方は考えているかもしれない。

だが実際にはそう簡単に死なせてくれない、、、のが今の社会である。

たとえば寝たきりになり、口から物を食べられなくなると静脈から点滴で高カロリーの栄養剤を注入されて半年以上は生きることになる。

物を飲み込むという作業は普通の人であれば意識せずにできるが、実はくちびるから喉を通過するまでに30ほどの指令を脳に送っているという。

「管につながれてまで、、、」という意味はまさにこの状態で、物を食べられなくなった時点で臨終を覚悟できる人は多いだろうが、現在の医療現場では、ほとんどそのまま死ぬことを許してくれない。

それだけではない。80年代に米国で開発された胃ろう(PEG)を選択すれば、ベッドの上で寝たきりのまま5年以上も生きていられる。

胃ろうは胃に穴をあけて(腹壁を切開)、そこから直接水溶性の食べ物を流し込む処置をいう。過去数年、病院で胃ろうを行っている患者さんを何十人もみてきた。少し前の統計では、日本全国に26万人もの患者さんがいる。

本人がそれを望んでいれば何も言うことはない。ただ本人が望まないまま、胃ろうの処置をされる人もいる。「母親には1日でも、いや1秒でも長生きしてほしい」と言って、言葉がでなくなった母親の代わりに娘さんが胃ろうを選択したケースを見た。本当に母親がその選択を望んでいたのかはわからない。

少なくとも、認知症や脳卒中、その他の病気で患者本人ではなく、家族の判断で管につながれて生きざるを得ない状況がうまれているのは事実である。

若い時からどう死ぬかということを考え抜いていたとしても、いざ年老いて病気になり、自分の意思を医師に伝えられない場合が少なくない。

さらに、「点滴の管を抜いてくれ!」と言ったところで病院はそれを受け入れてくれない。抜いてしまうと病院側が殺人罪に問われないとも限らないからだ。やはり患者は自分の死に方を選べない。

そうなると尊厳死というオプションを考えざるをえない。過去何年か、日本でも尊厳死の法制化をすべきだと思っている。

終わりというスタート

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Photo courtesy of CBS

日本ではほとんど馴染みのないアメリカのテレビ番組の司会者デイビッド・レターマンが番組を降りた(もうひとつの長寿番組の終焉 )。

降りたというより、33年も続けていた番組をついに終えたと表現すべきだろう。アメリカのテレビ司会者の中では最も好きな人だったので、レターマンが姿を消すということは、ある時代が確実に終わりを告げたことに等しい。

けれども年配者が現役を引退し、ただ寂しいと述べているだけでは自分も下り坂を降りているようで、どうも釈然としない。

何かが終わるというのは、別の視点から眺めると何かが始まることであり、そこに新しい波が生まれるとしたら、私はそちら側に身を置かなくてはいけないと真剣に思う。

68歳のレターマンはすでに億万長者であり、これから何もしなくとも経済的には困らないだろうが、テレビ局はそのあとに続く番組をつくるわけで、ニューウェーブをつくって新しい時代をけん引しなくてはいけない。

テレビだけではない。出版や広告、どんな業界でも一つの終わりは新たなモノがスタートすることを意味する。

今日はしきりにそんな思いにとらわれた1日だった。(敬称略)

いじめっこから届いたメッセージ

アメリカの地方ニュースを読んでいると、面白い記事にであった。

西海岸ロサンゼルス近郊に住んでいるチャッド・モリセットさん(34)は商品ブランドを立案するコンサルタント。自身のフェイスブックに、ある男性から1通のメッセージが届いた。そこにはこう書かれていた。

「10歳の娘が聞いたんです。お父さんはこれまで人をいじめたことがある?私は即座に「あるよ」と答えていました。直後、中学時代にあなたをずっといじめていたことが脳裏に蘇りました。すみませんでした。できればお目にかかって謝罪したいです。本当にごめんさない」

突然とどいたメッセージは中学時代のクラスメート、ルイス・アマンドソンさん(実名)からのものだった。いじめっこである。憎らしかったいじめっこが素直に謝罪していた。

モリセットさんはメッセージを読むと眼からいくつもの滴がこぼれた。

幼少時代、2人はアラスカ州の小さな町で育った。中学は荒れており、モリセットさんは殺される恐怖さえ覚えたという。

すぐに返事を書いた。

「娘さんに自分が以前いじめっ子だったことをお話できて素晴らしいですね。さらに、いじめた本人に直接謝ったことも娘さんに伝えられたと思います。20年の歳月と子どもの力というのはなんて素晴らしいのでしょう」