豪快さに脱帽

連日ウクライナでの戦闘のニュースを見聞きするたびに、少しばかり塞いだ気分になる。そうした時は楽しいストーリーや心が躍る話を求めたくなるが、今日、ある場所で驚きのシーンにであった。

私は中華料理が好きで、よくランチに中華のお店にいく。いわゆる「名店」も好きだが、「町中華」といった店も好きで、今日は一人で庶民的な店に入り、五目かた焼きそばを注文した。

出てくるのを待っている時、OL風の女性が私の左側のテーブルにきた。ウェイトレスさんが水を運んできた時、その女性は「生を!」と言ったのだ。まだ商品を注文する前である。私は心の中で「ホホッ、イイねえ」と呟いていた。

女性のビールが運ばれてくるのとほぼ同時に、私のかた焼きそばが来た。私はお酢をかけて、かた焼きそばの麺が少しばかりシンナリするのを待っていた。ウェイトレスさんが女性の注文をとりにきた時、その女性は「もう一杯!」と言ったのだ。明確な滑舌だった。

オーダーする前に一杯目を飲み干していたことに驚き、チラリと彼女をみた。20代と思われる女性は普通体型で、長髪のなかに女性の艶やかさが隠されたような、どことなく神秘的なムードを漂わせた人だった。そして「中華丼の大盛り!」と言ったのだ。「オオッ、イイねえ」である。

ランチにビールを注文する人は少なくないが、2杯である。しかも驚いたことに、中華丼が運ばれてきたときに、女性は「おかわり!」と言って3杯目を注文したのである。その豪快さに感服し、私は握手をしたい気分だったが、必死にこらえてかた焼きそばに集中した。4杯目にいくのかどうか見守っていたが、結局3杯と中華丼の大盛りでその日は終わったようである。

男でもここまで豪快な飲みっぷり、食べっぷりの人にはなかなか出会えないので、なんとなく得した気分になった。そして店をでる時、私の顔には笑顔がついていた。

最近不満に思うこと

最近、テレビを観ていてイライラすることがある。それはテレビ画面の上下に文字テロップがやたらと増えたことにある。

「何をいまさら」と思われるかもしれない。この傾向は過去10年くらいは続いているのだが、個人的には最近になって以前よりも気になりだした。テレビ局が出演者の発言や状況の説明をするためにテロップを多用することはわかる。ただ、多い時は上下だけでなく画面の左右にも文字がならび、さらに出演者の顔がワイプで抜かれていたりするため、本来の映像の半分くらいしか見えないことがある。特にバラエティー番組では顕著だ。

全体像をスッキリと眺めることが難しくなってきており、「昔に戻してほしい」と思うことしきりである。

さらなる不満はテロップの色が赤、青、黄といった複数のカラーにしてあるため、目障りである。テレビの映像をもっとシンプルに、美しく、すっきりと観たいと思っている私にしてみると、不愉快である。「美的センスの欠落」と言ってもいいかと思うが、局側にしてみると「目立てばいい」という思い入れが勝るようで「アーアアア」という声がでてしまいそうにいなる。

ただテロップが使われる一つの真っ当な理由として、耳の不自由な人がテレビを見る時にわかりやすくなる点が挙げられる。それは理解できるのだが、画面の「ゴチャゴチャ感」「ガチャガチャ感」をなんとかしてほしいと思っているのは私一人だけではないだろうと思っている。

新型コロナの心もよう:新型コロナ(32)

新型コロナウイルスが世界的に蔓延しはじめてからほぼ1年がたつ。多くのかたは目に見えないところでコロナの脅威を感じ、コロナに威圧されることで鬱のモードに入っているのではないかと思う。うつ病という病名がつくまでにいたらなくとも、この社会状況では心を高揚感で満たすことの方が難しいのではないか。

そういう私も例外ではなく、青空と同化してしまうほど清々しい心持ちになる日はこのところほとんどない。友人や知人と会えば、相変わらず笑い声が溢れる会話になるが、一人になれば心の底には空虚感が占拠するような日も多い。

それは私の年代だと男性の更年期と重なっていることも原因で、疲労感や気力の衰えなどをおぼえるようになってきている。病院にはいっていないが、「男性更年期障害」とネットで検索すると、いくつも目を覆いたくなるような症状が並んでいる。

男性の更年期はテストストロン(男性ホルモン)の低下により、前述した疲労感や気力の衰えの他、性欲低下、不眠、肩こり、集中力の低下、イライラ、発汗、関節の痛みといった症状がでる。私は関節の痛みこそないが、それ以外は深刻ではないけれどもすべて当てはまっているようにも思う。

それが歳を重ねるということであり、老いるということなのはわかるが、「チクショー」と叫びたくなるのも事実である。

原稿が進まない!

広島のホテルで原稿を書いていたが、うまく進まない。

ふと前を向くと、鏡の中に自分がいた。浮かない顔をしている。老眼鏡がさらに表情を暗くしている。

たまには暗澹たる顔も写真に撮っておこう。

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テレビとラジオ

ジャーナリストという肩書を名乗りはじめてからおよそ20年がたつ。そのほとんどを活字の世界で生きてきた。新聞、雑誌、書籍である。2年数カ月前にアメリカから帰国するまで、確実にそこが自分の世界だった。

日本に戻るとテレビやラジオから少しずつお呼びがかかるようになった。電波というメディアの現場に足を踏み入れると、これまで知っていたメディアとは何かが違う。

いきなり英語の話になって申し訳ないが、「メディア(媒体・語源はラテン語)」という単語は複数形である。だから本来「テレビメディア」とか「新聞メディア」という形では使えない。メディアの単数形は「ミディアム(洋服のミディアムと同じ)」という単語なので、正確には「テレビミディアム」「新聞ミディアム」というべきである。

しかし日本語には単数形と複数形の違いを語形変化で表記する習慣がない。全国の報道機関各位に「これからミディアムも使ってください」といいたいところだが、誰も耳をかさないだろう。

話をもどそう。テレビやラジオに出演する前から、活字と電波の世界の違いはわかっているつもりだった。たとえば雑誌の原稿を書く時、通常はかなりの熟考時間が与えられている。早く書けた時は原稿を送る前に「一晩寝かせて」朝起きてから読み返すことにしている。

さらに書いた原稿が雑誌などに掲載されて書店に並ぶまでには、デスクや校正士など何人かが目をとおして幾層かのフィルターにかけられる。最近では送った原稿が数時間後にインターネットにアップされることもあるが、少なくとも活字の世界には考える時間がある。ところがラジオやテレビではナマの姿を晒しながら、瞬間で勝負していかなくてはいけない。

「堀田さん、テレビは瞬間芸が要求されますから」

民放テレビ局のディレクターが諭すように言った。

バラエティー番組に出るわけではないので笑いをとる必要はないが、「テレビミディアム」らしく、視聴者の心に残るような発言が求められる。さらに、ニュースといえども会話形式で番組が進行する場合がほとんどなので、沈黙は許されない。

沈黙、、、、違いはこれである。

活字の世界は沈黙が許されるというより「沈黙は金」という格言がいまだに成り立つ世界である。沈思黙考という四字熟語が活きている。書き手に与えられた時間的猶予は大きい。

テレビの場合、収録であれば1時間から数時間も話をして実際にコメントが使われるのは15秒という時もある。もちろん1時間の話の中で、どの発言をテレビ局側がつかうかは先方の自由である。自分ではいい話をしたつもりでも、その部分が使われないことの方が多く、逆に使ってほしくない部分を放送されたりするので、活字で生きている人の中には映像に出ないと決めている人もいる。

ただ私はテレビとはギブ・アンド・テイクだと思っている。それが人生だという気持もある。むしろテレビの影響力を利用しない手はない。少なくとも活字より数十倍は大きい。まして新聞・雑誌の下降カーブは電波よりも大きい。もちろん雑誌の長い原稿と比較すると、情報量は逆に数十分の一になる。数万人の雑誌読者か数百万人の視聴者かという選択があるとしたら、私は欲張りだがどちらにも手を差し伸べたい。

ラジオもAM、FMともに数局ずつ出演させて頂いているが、話したいことをかなり自由裁量にしゃべることができるミディアムであり、伝えるという点においては活字とテレビの中間に位置しているかもしれない。

6月1日から4日まで毎朝6時から、J-WAVEのパワー・ユア・モーニングというコーナーに出演するので、早起きの方はお聴きいただければ幸いである(J-WAVE 別所哲也)。 (敬称略)