与党敗北でも社会は安定

第50回衆院選挙の結果は、投票前からすでに自民・公明が大幅に議席を減らすとみられていたので大きな驚きはない。ただ過半数を割り込んでしまうほどの敗北だっただけに、自民党関係者はショックが大きかったのではないか。

選挙当日の夜から外国メディアをチェックしていると、かなり早い段階から自公の敗北を伝える報道が目をひいた。米CNBCテレビは開票の途中で「自民党、解散総選挙で過半数割れ」と打った。

またカタールのテレビ局アルジャジーラは「出口調査によれば、日本の連立与党は過半数に届かない可能性があり、世界第4位の経済大国の政権構成に不透明感が増している」と報じた。

さらに英BBCは「与党が過半数割れ、新首相に打撃」とした上で、「この選挙は、自民党の石破茂新党首が就任数日後に呼びかけたものだが、議席の過半数を失ったことで、石破氏の政治的将来が危ぶまれる」と石破氏の今後に疑問符を投げかけた。また米ブルームバーグは「日本の与党が2009年以来初めて過半数を失うことが出口調査で判明した」と伝えた。

ただ今朝(28日)、千代田区丸の内の外国特派員協会で顔をあわせた記者と選挙について話をすると、こうつぶやいた。

「これで自民1強の時代は終わるのかもしれないが、それで日本社会が不安定になって暴動が起きるということはない。それが日本の強いところで、政局が不安定になっても市民の生活が脅かされることはない。他国ではなかなかそうはいかない」

日本人は政権が代わったからといって、それで慌てふためく人がいない。それは日々の生活が変わらないことを知っているからで、日本人はもう少しこの事実に感謝すべきなのかもしれない。

一票の重さ

都知事選の投票日である。期日前投票もあるが、私は今日(7月7日)、投票所に出向いて一票を投じてきた。当たり前だが、有権者の一票一票の積み重ねで政治は変わる。

実際の政治は利益団体によるロビイングによって、特定の法案の可否が決まることが多いが、それでも政治家を選ぶ段階においては選挙がモノをいう。「オレの一票で何が変わるんだ」との思いは否定されるべきで、小さな積み重ねによって変化をもたらすことができるはずである。

政治不信への対処策

朝日新聞が実施した全国世論調査によると、自民党の支持率はいま19%という惨憺たるもので、2001年以降で最低となった。政権政党の支持率が10%代というのは、大半の国民が岸田内閣に大きな疑問符をつけると同時に、日本の政治そのものにも強い不信感を抱いているということにほかならない。

自民党の支持率が低くなったことで野党の支持率が上がるのであれば納得できるが、野党第一党の立憲民主党の支持率も低いままで、8%でしかないのだ。日本維新の会は3%、公明党と共産党もともに3%、国民民主党とれいわ新選組はそれぞれ2%でしかなく、底辺をうごめきあっている。

特定の政党を支持しない無党派の有権者は6割に達していて、これは文字通り政治への関心が低いことを意味している。こうした状況は過去何年も変わっていない。2019年に非営利シンクタンクの「言論NPO」が民主主義についての世論調査を行ったときも、「日本の民主主義を信頼している」と答えた人は約3割に過ぎなかった。

いまの日本の政界は弱小政党が乱立し、有権者は違いを認識できていない。そろそろイギリスや米国のような2大政党制への移行を真剣に討議し、実践していくべきではないのだろうか。

自民党と野党の新しい政党という2者択一になれば、主張や政策の違いがわかりやすくなり、政治への関心がいまよりもはるかに高まるはずだ。2大政党制という点では 1955年から1993年まで、自民党と日本社会党の戦いがつづいた過去もあり、日本にとって初めてのことではない。ぜひ試みてはいかがだろうか。

再び、政治とカネ

またしても永田町が政治とカネで揺れている。揺れているといっても大揺れで、当事者にとっては大地震といっても差し支えないだろう。よからぬカネを受領したことで、自分の政治家としてのクビが飛びかねない。

「権力はほしいしカネもほしい」という人間の性(さが)が政界に渦巻いていることは誰しもが知る。国家の政治を任されている人間としては、そこでブレーキをかけてしかるべきなのだが、「あの人も貰っているので俺も、、、」という論理からか、自分だけブレーキをかけて流れを止めようとはしない。

もちろん政治とカネの問題はなにも今に始まったわけではない。連綿と続ている。私がアメリカから日本に戻ってきてすぐの2007年夏にも同じようなことがあった。当時の安倍内閣(第一次)の閣僚がカネの問題や失言でつぎつぎと辞任し、同年夏の参院選で自民党は大敗。その後、安倍氏は健康問題もあり辞任したが、あれから16年がたった今でも政治家の金銭への執着と醜行はほとんど変わっていない。

それではアメリカの政治家はカネの問題をクリアしているのか。そんなことはない。

アメリカでは選挙運動をする時、200ドル以上の献金を受けた時は連邦選挙委員会(FEC)に報告しなくてはいけないが、いくつもの法律の抜け穴をつかって巨額の選挙資金を集金している。それは非公開であるためシークレットマネーと呼ばれ、2022年の中間選挙では2億9500万ドル(約429億円)もの巨費が闇の中で集金されたことがわかっている。こうした闇のカネが選挙や政治家に流れ込みつづける限り、民主主義は脆弱なままだ。特定の利益団体や企業、個人がアンダーグラウンドで強い力をもってはいけない。

一般有権者の声が何よりも優先されるべきなのだが、時代を経ても同じ過ちが繰り返されるのは、人間がいつの時代でも完璧ではないからなのだろうか。

無気力、無関心、無責任

昨晩、NHKの「アナザーストーリーズ」を観ていると、懐かしい言葉が出てきた。三無主義である。

この言葉を耳にしてすぐにピンとくる方は、私と同世代かそれ以上の方なのだろうと思う。1960年代に活発化した学生運動が下火になり、若者は多くのことに無気力になり、さらには無関心、無責任も加わって三無主義に陥った。そこに無感動が加わって四無主義という言い方もされた。

最近、20歳前後の若者と話をすることがほとんどないので、今の若者の心のありようは熟知しないが、いつの時代にも三無主義や四無主義に陥っている人たちはいるのだろうと思う。それは若者だけではない。精神的な高揚がなく、惰性で生きているような人たちは三無主義に包まれる傾向がある。短期的なものであればいいが、しばらく泥沼に足を取られて抜けられないような精神状態であれば、意識的に泥沼から自身を浮揚させなくてはいけない。

いま私が心中で望むのは、60年代の反体制運動のような、社会を揺り動かす潮流がまた生まれないかということだ。三無主義などとは言っていられないくらいの激動を本当は期待していたりするし、また目の当たりにしたいと思っている。