宗男の厚顔と検察の圧力

鈴木宗男がいよいよ刑務所に入る。受託収賄と斡旋収賄など4つの罪に問われた。

公判記録を読んでいないし、この件では取材をしていないのでジャーナリストとして事実にもとづいたことは書けないが、現在、ある冤罪事件を追っている。その周辺で弁護士や元裁判官、事件の当事者や関係者に取材を行っている。そして日本の司法全体も考察しているので、その観点から宗男の実刑を考えてみたい。

宗男は昨日、こう言った。

「私自身、賄賂をもらったという認識はありません。密室の取り調べでつくられた調書で誘導された犯罪であることを、最高裁は明らかにしてほしかった」

実はこのコメントに、この刑事事件の性格を表す二つのポイントがある。一つは「認識はありません」であり、もう一つは「調書で誘導された犯罪」というところである。

宗男は「認識はありません」と言ったが、「カネを受け取っていません」とは言わない。建設業者から口利きの礼としてキックバックが宗男のポケットに入っていた事実は否定していない。

賄賂と受け取るかそうでないかの違いは主観的なものであって、不法のカネを受け取った時点で宗男は裁判所の判断通り、収賄の罪に問われなくてはいけない。カネの流れが事実としてあれば収賄罪は成り立つ。

ただ、「調書で誘導された犯罪」というところは、私が取材中の冤罪と重なるところで、検察の作文によって罪が作られるという側面はいまの刑事訴訟が抱える大きな問題点の一つである。

検察が被告人に有利な内容を調書に書かないことは当たり前になっている。検察は被告人を有罪にするためにありとあらゆることをする。それは宗男だけでなく、すべての市民が知らなくてはいけない。

宗男の場合、カネを受け取った事実と、事実にそぐわない調書が作られたという二面から有罪が確定した可能性が高い。

もし宗男の主張するとおり、調書内容が事実と違う場合は不同意にして、戦わなくてはいけない。それは一審の時に尽力しなくてはいけないことで、最高裁に期待することではない。

印象として宗男の収賄罪はほぼ間違いないが、検察の暴走によって調書がさらに宗男不利に作られたといえる。いまの日本の刑事訴訟をみると、自浄作用は期待できない。マスコミはそこを突かなくてはいけない。(敬称略)

讃岐うどんの世界

高松に来てからうどんを食べに食べている。

今さらここで讃岐うどんについて述べる必要はないだろう。すでに全国区になって久しい。ただ香川県人のうどんへのこだわりは、日本一どころか世界一という自負を町中から感じる。

それは町を歩くだけでよく理解できる。メインの商店街だけでなく、脇道に逸れても、住宅街を歩いても、畑の中をいっても、大胆に、ひっそりとうどん屋がある。

地元の人からある製麺所を教えられた。自分でうどん玉を湯がき、出汁を器に注いでねぎと天かすを乗せ、立ったままかき込む。期待が高すぎたせいで、飛び上がるほどではなかったが、2玉があっという間に消えた。

取材の合間に、「この先の米屋でうどんを出しているから行ってみろ」といわれ、ぶっかけを食した。そして別の店ではちくわ天を乗せた。

どの店も最初に噛んだときのこしと舌から喉に流れる感触が少しずつ違う。微妙な違いではあるが、店の「らしさ」がある。出汁にも差異があり、同じ讃岐のうどんでも幅があることがわかる。

来てみないとわからない地元ならではの味である。それを香川の人は「普通」と受け取る。そこにすごさがある。

龍馬の水

取材で高知に来ている。

東日本から西日本にかけての猛暑は汗の中から汗がわくような感覚で、じっと耐えるしかない。町の中で涼を求めるとすればクーラーの効いた屋内に避難するしかない。それでも目に入るものの多くが新鮮で、取材でいつも体感するアドレナリン・ラッシュがやってくる。

タクシーに乗っても、鮨屋に入っても、こちらから絶え間のないくらい質問をくりだすので、かなり嫌われ者になっていることだろう。それは新しい土地での「知りたい病」と呼べるかもしれない。

「おらんく」とはどういう意味ですか。「チャンバラ貝」というのは二枚貝ですか。昔から「龍馬空港」と呼ばれていたのですか。(それぞれの答えは「おらんく=我が家」、「チャンバラ貝=巻き貝の一種」、「龍馬空港=平成15年からの愛称」)

ミネラルウォーターを買うためにコンビニに立ち寄り、ショーケースを眺めていると、目にとまりました。ご当地の品が。

「龍馬(わし)の水ぜよ」

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高知県室戸の海洋深層水使用とあるが、他社のミネラルウォーターとの違いは私には識別できず、、、。

フランス革命記念日

7月14日。日本ではパリ祭といわれる革命記念日の夜、南麻布にあるフランス大使公邸のパーティに招かれた。

混然とした東京の町に静謐な庭が広がっている。芝生の向こうにはプールがあり、うっそうとした木々に囲まれた空間は時が静止しているかのようだ。日の暮れ方、ホタルが飛んでも誰も驚かないほどののびやかさがある。

立食形式なので、立ち話しかできない。どのパーティにいっても、立ったままでは本当に身のある会話にはならない。大使も交えて参議院選挙の結果と今後の日本の政局について話したが、その場を離れれば薄い氷がすぐに溶けてしまうのと同じでほとんど何も残らない。

何枚もの名刺だけが重なって手元にある。フランス語の名前と顔がすでに一致しない。今日、町ですれ違っても先方が気づいてくれない限りこちらから声をかける自信はない。

それでも、新しく出会った人から一つでも心に残る言葉やセリフが去来すれば、私にとってはいいパーティだったといえるだろうが、その日は胸に刺さるものはなかった。ましてや名刺の肩書ではない。

帰る直前、目の前を料理評論家の服部幸應がテレビで観るとおりの黒い「マオカラースーツ」で通り過ぎたが、妙に寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。(敬称略)

初めてのMRI

いつかはやってみたいと思っていた。頭部のMRI(核磁気共鳴画像法)。 

一般的な定期健康診査にMRIは入らないので、脳ドックという形で画像を撮ってもらうしかない。別に脳梗塞の初期症状があるわけでも、耐えられない頭痛が続いているわけでもないが、予防的な意味から検査することにした。

自分の脳内を画像という形で見られることはたいへん興味深い。機会があれば頭蓋骨を開いて見てみたいとさえ思うが、かなうわけもない。CT(コンピューター断層撮影)というのは以前、体の違う場所で撮影してもらったことがあるが、MRIは生まれて初めてである。

機械の外見はMRIもCTも、素人にはほとんど同じである。細いベッドに寝て、頭部の方から白いドーナツの穴の中に吸い込まれていく。両方とも人間のパーツの輪切り画像がえられる点で共通するが、MRIはX線を使わないので放射線被ばくがない。さらに、輪切りにされた画像コントラストがCTよりも高く、造影剤を使わなくとも撮影できる。

「音がうるさいのでヘッドフォンをします」

そこから音楽が流れてくるわけではなかったが、耳にヘッドフォンをつけるとすぐにドーナツの中に入っていった。CTは数十秒、中にいただけったが、MRIは長かった。

いく種類かの警報音が炸裂した。私の記憶の中から拾ってくると、映画『エイリアン』の最後に、シガニー・ウィーバーが本船の起爆装置を起動させたあとになり続けた警報音に似ていた。

「ギーカーギーカー」いっている。そして道路工事の掘り起こすような音も響く。さらに「ガーポガーポ」といった違う警報音もやってくる。工事現場に頭を突っ込んだかのようでもあるし、映画の中でエイリアンに襲われる中を逃げているような気分でもあった。

自分の中の映画は5分ほどで終わった。

その日のうちに脳神経外科の先生が、私の輪切り画像をしめしながら脳内を説明してくれた。血管も立体的に浮き上がっている。

腫瘍も血管の詰まりも、大脳の委縮もなかったが、右脳にポチンと小さい点があった。

「ぜんぜん問題ないです」

先生はそう言ったが、以前に無症状の脳梗塞を起こしたあとかもしれない。

首から上はその日のうちに結果がでたが、血液検査やその他の診査結果は後日である。また少し胸の鼓動は早まる。