眼球って縫えるんです(5)

手術は白内障の手術から始まりました。私は白内障ではないですが、網膜前膜の手術をした人は数年後、確実に白内障になるので、前もって手術をしてしまうのです。

もちろんほかの選択肢もあります。数年後に白内障を発症するまでまって、それから手術をするのです。私は一緒にするオプションを選びました。

白内障ははっきり述べると「高齢者の病気です」。かりに人間が100歳まで生きたとすると、ほぼ全員が白内障になります。日本だけでも毎年100万人以上が手術を受けています。

3つの穴をあける

白内障の手術は15分ほどで終わりました。そのあとが本丸の網膜前膜です。

手術台の上で寝ていると、室内にピッピッピという心臓音が一定間隔で鳴るのが聴こえます。手術直前に、胸に心電図を測る器具がつけられたからです。さらに右の上腕には血圧計も巻かれています。

手術室にはロックの音楽も流れていました。執刀する先生がリラックできるからでしょう。私の周囲には4人の先生がチームになっているはずでしたがが、声が聞こえたのはM先生ともう1人の先生だけでした。ささやき声も耳に入ってきます。

網膜前膜というのは、硝子体(眼球)が老化などで縮んだり、レーシックなどの影響で繊維性の膜が網膜に付着する病気です。余計な膜が眼球の底にくっついた状態です。その膜が視界をゆがめるのです。

それでは、どうやって膜を剥がすのか。

手術前、ある人と話をしていると「眼球を取り出すんじゃないの」と言っていましたが、最初は私もそう考えました。

じっさいは白目の部分に3カ所の穴をあけて、カッターやハサミ、ライトなどの器具を挿入して膜を剥がしてくるのです。信じられないような手術です。

先生が合図をだした直後、眼球に圧力がかかりました。器具が中に入ったのです。麻酔が効いているので痛みはまったくありません。ただ眼球内に異物がはいる捉えようのない落ち着かなさは、これまでの人生で経験がありません。それを3回。

3カ所もあけるのは、1つが眼球内を照らす超小型ライト用で、2つ目はカッターやピンセット、レーザーなどの交換可能な器具用の穴。もう1つはM先生によると水の穴だそうです。

「手術中、眼球はしぼんできてしまうので、水を入れるのです」

術後の検診で、いろいろと質問をしてわかったことです。すべてミリ単位の世界です。

素人としては「ここまで医学技術は発達したんだ」という感慨がありました。

実は、眼球の中にはいったピンセットの動きが私にはよく見えたのです。ピンセットが極薄の膜をつまみあげ、網膜から剥がしてくる様子がわかりました。まるで影絵を見ているようでした。

27日の検診でM先生に、「3枚、剥がしましたか」と告げると、「エッ、見えたんですか。過去に見えたと言った人は誰もいませんよ」と驚きます。

たぶん見えていた方もいると思いますが、先生に話さなかっただけなのだろうと思います。手術中、頭は動かさないようにと言われました。ミリ単位の手術です。頭部を大きな固定具で動かないようにするのかと思っていましたが、そんなことはありません。1時間、咳もくしゃみもできず、頭部を動かすことも許されない。

幸い大きな出血もなく、網膜に穴もあかず、手術はうまくいきました。最後に先生同士で、傷口を縫うか縫わないかを、話していたのが聞こえました。結局、眼球にはいくつかの縫い糸(あとで溶ける)が残って手術は無事におわりました。

自分の病室にもどってベッドに横になると、落ちるという表現が当たるように寝てしまいました。

数時間して麻酔がきれると、左目の奥のほうから深い痛みがやってきました。小さな巨人が中にいて、足踏みしながらドラムを叩いているような感覚です。

生まれて初めてナースコールを押しました。(続く)

眼球って縫えるんです(4)

手術の当日、午前6時過ぎに看護師さんに起こされました。すぐにシャワーに入って頭を洗い、さっぱりして午後の手術に備えます。

7時過ぎにロールパンとママレード、ハムサラダ、そしてミルクという朝食がトレーに乗って部屋に運ばれてきました。少しだけホテルのルームサービスに似ていると思いましたが、このメニューについてきた暖かい飲み物が番茶でした。

朝食後、コーヒーを買いにパジャマのまま7階から6階に降りました。帝京大学病院は1階にレストランやナチュラル・ローソンが入っていますが、入院患者のために6階にもローソンとレストランがあります。

前もって看護師さんから午前11時から30分ごとに「数種類の目薬をさしにきますので部屋にいてください」と言われていました。男性の看護師さんが本当に11時ジャストにやってきて、手際よく次から次へと目薬をさしていきます。次に来たのも11時30分ピッタリで正確さに驚きました。

そして真っ白い手術着とメッシュの青いヘアキャップを移動式の机の上に置いていきました。いよいよ手術です。女性の看護師さんが再度、説明にきた時に訊きました。

「全裸で手術着を着るんでしょうか」

「いいえ、パンツははいていて結構です」

「ということは、下の毛は剃らない?」

「剃りません」

手術によっては上半身の手術でも下の毛を剃ると聞いていたからです。さすがに目の手術では必要ないようでした。

執刀医のM先生も部屋にきて励ましてくれました。そして左目の上に赤いマジックで丸を描いていきました。毎日、何人もの患者さんがさまざまな目の手術をするので、どちらの目かを間違わないようにするためです。

まるでインド人女性が額の中央につける「ビンディ」が横にずれたようで、おちゃめというよりイタズラ書きでした。さらに左足の甲に黒いマジックで自分の名前を書くようにいわれました。

hospital10.23.17

ドクターXの世界へ

手術は夕方5時ごろからと聞いていましたが、早まって午後1時半頃から始まると告げられました。そして左腕に筋肉注射を打たれ、いよいよドクターXの世界に突入です。少しだけ鼓動が早くなりました。

手術着に着替えて待っていると、すぐに幅の狭いストレッチャーが部屋に運ばれてきて、ベッドから移動するようにいわれました。両腕がストレッチャーのエッジにあたると体温がうばわれていくほど冷たいです。

手術室は3階でした。男性の看護師さんがストレッチャーを動かします。廊下を移動し、エレベーターに乗せられます。一般の方も使うエレベーターで、乗っていた人から好奇の視線を感じました。テレビドラマや映画で観る光景そのままです。

私はずっと目をつむっていました。

3階に着いて、さらに移動してから止まりました。頭を起こして周囲を見渡すと、手術室は巨大な倉庫のように見えました。天井も高く、5メートルくらいありそうです。すぐ横に女性の看護師さんが付き添ってくれました。

「少し待ってくださいね。寒いですか」

手術室は大きな保冷庫のようでもあり、パンツ一枚に薄い手術着だけの身には寒い。手術時間はほぼ1時間と聞かされていたので、「まあ耐えられるか」という思いでしたが、5時間もかかる手術であれば寒さで震えると思ったほどです。

M先生が「堀田さんは健康だから、点滴はしなくていいですかね」と言ってきました。

「どちらでもいいです」

20秒ほどしてM先生がもどってきて、「規則だそうなので点滴をします」と述べます。ほとんど患者さんは、最初から点滴をしているという証拠です。

「抗生剤ですか」と私が訊くと、「いや、万が一の時のためにすぐに薬を入れられるようにするのです」と呟きます。いちおう本格的な手術なのです。

ストレッチャーから手術台に移動する時も自分で動きます。重病患者ではありません。すぐに全身を覆う厚手のシーツのような布がかけられました。左目だけが露出しています。

看護師さんが左手の静脈に点滴の針をさしました。そして目の周囲が十分に消毒され、目の中に麻酔を垂らされていよいよ手術のスタートです。全身麻酔ではありません。

執刀医のM先生がこれから行う手術の名称を発声しています。単に「網膜前膜」という名前だけでなく、前後に漢字がいくつもついた長い名前です。ドクターXで観るそのままです。

左目の瞳孔はすでに開いており、強いライトが当たっていることはわかりますが、先生の顔も手も判別がつきません。

数秒後、ほとんどいきなりといった感覚で眼球が切られていました。(続く)