公職選挙法の改正へ

参議院選挙が終わり、今日(14日)は都知事選の公示日。

宇都宮健児が鳥越俊太郎に道を譲ったことで、野党勢力は鳥越で1本化された。ジャーナリストとしてというよりも、人間として信頼できそうな候補だが、知事として適任かと言えば大きな疑問符がつく。

都知事には間違いなく、小国の大統領並の資質と指導力、そしてなによりも行政力が求められる。小池百合子と増田寛也にしても、知事になるための準備期間があまりに短かすぎる。

それは法律の問題である。いまから法改正する時間はないが、近い将来、公職選挙法第5章の「選挙期日」の条項を改正する必要があると考える。

米大統領選は選挙期間が定められていないため長すぎるので、米国と日本の中間として3カ月の選挙期間を設けるというのはいかがだろう。

さらに選挙期間の前に、2カ月の準備期間を設定して選挙対策本部で汗を流す人材の確保や政策を練り込む必要がある。選挙資金も集めなくてはいけない。

先週あたりからメディアに現れた小池、増田、鳥越はどうみても準備不足。というより、舛添要一が辞めてからの時間が短かすぎる。特に鳥越は思いついて手を挙げましたといった風情なので、アップアップしている。

それは資質の問題というよりシステムに欠陥があるからに他ならない。現職の知事が辞職した場合、副知事に5カ月間代行してもらい、5カ月後に投票日を設定する新条項を公職選挙法に加えるべきである。(敬称略)

「根回しがうまくないんですね」

Koikeyuriko7.8.16

7月8日午後2時半。日本外国特派員協会の会見に現れた小池百合子。

「私は根回しがうまくないんです」

防衛相時代、事務次官と喧嘩したことを少しばかり反省してみせた。さらに、自民党都議連の推薦をえないまま都知事選に出馬表明したことに、少しばかりの後悔があるようにも見えた。

考えようによっては、それこそが小池のよさであり、小池らしさかもしれない。

何ものにも媚びず、恐れず、そして立ち向かう。

それがいい結果を生めば申し分ないのだが。(敬称略)

仮面ライダーになれますように!

7月7日・・・

通っているスポーツジムの玄関に、先週から笹竹が立てられている。自動ドアが開くたびに、短冊がゆるゆると回転する。

そばに寄って短冊に書かれた願いごとを読む。

「かめんらいだになれますように」

口元がおおきく緩んだ。色鉛筆で書かれた文字はひしゃげていたが、勢いがある。

ブログのタイトルには「仮面ライダーになれますように」と記したが、実際の短冊には「かめんらいだ」と書かれていた。

2行目に「まこと」と平仮名で名前が読めた。彼は本気でそう思っているにちがいない。

私には子供がいないので、小さな子が真剣に、大人が忘れた夢を抱く姿が尊く感じられる。

帰り道はとても得した気分になった。

次の知事もダメな理由

舛添が辞任したあと、次の都知事を誰にするのか自民党や野党は悩んでいるという。

「誰にするのか」というニュアンスが新聞でもテレビでも、さらには政党内にも広がっている。知事を選ぶのは都民であって政党ではない。

政党が後押しすることで票が集まるのは間違いないが、まず「知事はお任せください」という諸政策に通じ、リーダーシップがあり、カリスマ性のある候補が現れなくてはいけない。ところが今の都知事選はまるで中学校の生徒会長選挙のように、「頼まれたから出馬します」的な後ろ向きな候補しか見当たらない。

桜井翔の父親の桜井俊は「器ではないと思っています」と出馬を否定した。だがあるニュース番組で元共同通信の後藤謙次は「首相がくどいたらわからない」という言い方をする。

やる気のない人間をくどいて都知事に仕立てあげるスタイルで、真の政治家が生まれるとは思えない。心構えも、知事になるための準備期間も足りないからだ。こういう人を説き伏せてはいけないし、絶対に政治家になってはいけない。

それは首相の選出にも言えることだ。日本では辞任した首相の後任がすぐに決まる。翌日には指名されていたりする。恐ろしいことである。

アメリカ大統領選は長すぎるのがむしろ問題だが、少なくとも1年以上の期間をかけてトップを選ぶ。トランプのような暴言を吐く人間が共和党代表になることもあるが、経歴から資質、体力、指導力など、あらゆる面が試される。

市長や州知事も同じで、長期間の選挙戦を勝ち抜いた候補だけに最後のスポットライトが当たるシステムが確立している。日本も法を改めて、時間をかけてリーダーを選ぶルールにしないといけない。

現在、都知事の下には3人の副知事がおり、都知事不在の期間は彼らが代行を務めればいいだけの話である。首相も同じで、安倍に不測の事態が生じたときには今の副総理である麻生太郎が代行を務め、じっくりと時間をかけて首相を選ぶべきである。

心の準備もできてない人間に、短期間で都知事になれとか首相になれと言うこと自体が無謀である。また同じ過ちを繰り返して、任期なかばに辞任という結末を迎えかねない。

個人的には、次の都知事はビジネスの世界で成功した統率力と管理能力のある人になってほしいと考える。(敬称略)

幻想の平等主義

先日、『日本語が亡びるとき』(水村美苗)という本を読んでいると、思わず線をひきたくなる一文にでくわした。

「平等主義は、さまざまなところで、私に現実を見る眼を閉じさせた」

いきなり、こんなことを書いても「なんのことだろう」と思われるかもしれない。前後の脈絡を少し説明しなくてはいけない。

著者の水村はこの本で小林秀雄賞を受賞していて、久しぶりに出会った秀抜なエッセイである。日本文学だけでなく話はさまざまな分野におよんでいる。

その中で、水村は日本の戦後教育が民主主義という名のもとに、子どもたちに平等主義を教え込んだと書いている。古い言葉であるが、「職業に貴賤(きせん)なし」という、職業に身分の高い低いはないという考え方を教え続けたというのだ。

平等主義が悪いわけはない。理念的には正しい。職業によって偉い人やそうでない人がいるという考え方をしてはいけないことは誰もが知ることだ。

だが水村は社会的経験を積んだのち、平等主義を真に受けるような教育によって「職業に貴賤がある事実に眼を閉じさせる」と書くのだ。子どもたちに社会は平等なのだと教えることはいいが、実際の社会に真の平等はない。

まだ実現していないと書くべきかどうかは疑問の残るところで、人間が人間である以上、真の平等社会は訪れないかもしれない。不平等社会のなかで平等主義を唱えることに対する矛盾があるのだ。

水村はさらに書く。

「この世には限られた公平さしかない。善人は報われず、優れた文学も日の目を見ずに終わる」

これが現実の世界である。大人は意識的に、または無意識的に知覚しているが、それを再認識するとガクンと肩を落とすような寂寥感しかおとずれないので、私は心のなかで跳ね返すことしている。(敬称略)