懐かしい場所

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2007年まで住んでいた米首都ワシントン郊外のスーパー。久しぶりにもどってみましたが、置かれている商品やお惣菜コーナーのメニューに大きな変化はありません。

ここのクラムチャウダーと手作りパンがなかなか美味しかったのを思い出しました。

ポーランドの作曲家

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旅にでると、なるべくたくさんの所を「観ない」ようにしている。世界遺産と呼ばれるところにも足を運ぶが「できるだけ効率よく回る」ということをしないようにしている。

だから写真だけ撮って短時間で次にはいかない。必ずではないが、行かないようにしている。それよりも訪れた国のイマを知り、感じ、考えたいと思っている。

たとえばカンボジアに行った時、当初はアンコールワットに行く予定を入れていなかった。首都プノンペンをみて、イマのカンボジアを知ることが旅の目的だった。だが「アンコールワットを観ないで帰るのは損をしますよ」とホテルの人に言われ、忠告にしたがった。いま思うとありがたいアドバイスだった。

今回の東欧の旅もできるだけ多くの人と話をすることに時間を割いて、有名な城や教会は代表的なところだけにしている。

そんな時、「ポーランドの京都」といわれるクラクフで上の写真の男性と出会った。

音楽家で「作曲もしています」と言った。旅先では多くの人が自分のいい面を口にしたがるし、誇張が入ることも多いので、「そうですか」と返事をしておいた。

片言の英語でポーランド訛りも強かったが、話が進むうちに「本物だ」と直感した。彼は旅人ではなく、クラクフの中心地に自宅を構えていた。旧市街の中央広場というところからほど近いところに中庭のある素晴らしい石造りの邸宅があった。

「どうぞ入ってください」と気さくに案内してくれた。中庭をコの字型に囲むようにして自宅が建っており、右側のアーチ型の入り口を行くように促された。

そこは明るい照明が射す音楽室だった。グランドピアノが置かれ、10脚ほどの椅子と譜面台があり、30分前までオーケストラが練習をしていたかのような空気が漂っている。

男性はそこでタクトを振るしぐさをした。音楽が中心になった芳醇な生活がそこにあった。

音楽室はモダンに改築されていたが、自宅の壁面を見る限り、100年以上は建ち続けているように思えた。クラクフは16世紀後半まで500年も続いたポーランド王国の首都だったところである。

芸術を愛する人間の持つ落ち着いた佇まいと優しげな目つきに触れられたことが、今回の旅の収穫と言っても言い過ぎではない。

アウシュビッツ

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前回のブログでポーランドのクラクフという町に向かうと書いた。クラクフから車で1時間ほど西にいった所に、あのアウシュビッツ強制収容所がある。人間の負の遺産として、今後もずっと残していかなくてはいけない場所である。

1940年、ナチスはポーランド人の政治犯を収容するためにアウシュビッツを造るが、41年からユダヤ人をはじめロシア人捕虜、ジプシー、障害者、同性愛者などを強制連行した。するとアウシュビッツだけでは収容しきれなくなり、ビルケナウ(第2強制収容所)を2キロ離れたところに造る。

第2次世界大戦が終了するまでに110万人が殺害された(病死等も含む)と言われている。ガス室はアウシュビッツに1カ所、ビルケナウに4カ所あり、列車から降りた人たちの多くはそのままガス室に送り込まれた。

ガイドをしてくれたポーランド人女性は見識も知識もすばらしく、ツアーが終わってからヒトラーの選民思想について訊いた。

ユダヤ人迫害の思想はもちろんヒトラーが起源ではない。ナチスドイツが生まれる前からのもので、ヒトラーは人種差別思想だけでなく、成功していたユダヤ人の資本家たちを排斥する意味でも、また共産党を破って独裁体制を敷くためにもドイツ人の意識を刺激する必要があったという。

「国民を洗脳するために大々的な喧伝活動をやったのです」。ガイドの女性は「いくつもの複合的な理由が合わさっています」と言った。

その一端を担ったのがメディアだったことも事実だ。あらためてメディアの役割、功罪について深く考えさせられたアウシュビッツ行だった。

世界の車窓からー国境越え

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チェコの首都プラハから列車に乗ってポーランドのクラクフという都市に移動。535キロなのでほぼ東京ー大阪間の距離ですが、7時間かかりました。

山手線と同じくらいのスピードで進みます。それだけにゆっくりと景色を脳裏に焼きつけながらの旅でした。