フロスとゴミ袋

毎日、日本だけでなく世界の出来事に目をくばっている、つもりである。

その中で多大の関心は、やはり人生のほぼ半分を過ごしたアメリカに向く。日々のニュースだけでなく、絶え間のない日米比較が頭のなかをかけめぐる。

日本能率協会の月刊誌で「上陸するアメリカ・しないアメリカ」というテーマで連載をしている。そこではアメリカの諸事情について、これから「日本にやってくるモノとそうでないモノ」という分類で論考を加えている。

                                                                  

たとえば司法取引。

これはアメリカの刑事事件では当たり前のことで、ほぼ9割の犯罪が検察と容疑者のあいだでとりかわされる取引によってカタがついている。コンビニから雑誌を盗んだというささいな窃盗罪から、数百億円の被害がでた産業価格カルテルまで、司法取引なしにアメリカの刑事事件は収拾しない。

けれども日本の司法界には違う論理が流れており、アメリカのような司法取引は原則として行われていない。そこには真実の追求を大切にする日本らしい文化があるためだ。今後、アメリカ流の司法取引が上陸する可能性は低いだろう。

そのほかにも日常生活レベルで「これは日本の企業につくってほしい」とか、「これは日本社会には合わない」というものが山ほどある。

すでに上陸したものではデンタルフロスがある。日本での歴史は浅く、いまだにフロスをしない人も大勢いるが、アメリカではすでに100年以上の歴史がある。日用品大手のジョンソン&ジョンソンがフロスの特許を取得したのは1898年のことで、日本には100年近くたってから出回りはじめた。

私がいま、ぜひ企業に作ってもらいたいのはアメリカで使われているゴミ袋である。日本のコンビニやスーパーで売られている30リットルや45リットルの袋は、1枚を取り出そうとする時にほぼ例外なくスムーズにでない。

さらに硬いものを入れると袋の横がさけやすいし、ゴミを目いっぱい入れてしまうと縛りにくい。けれどもアメリカの袋は指摘したすべての問題を解消している。

まず袋はティッシュ箱のようになっているので、すぐに1枚を抜きとれる。さらに材質が強いものが多い。そしてゴミ袋の開いた部分にヒモがついているものが多いので、簡単にしっかりと縛れる。

精巧なモノを作ってきた日本がどうしてこの分野でアメリカ製品に遅れているのか、理解できない。企業人が気づいていないだけなのか。早い者がちという気もする。

どなたかに、ぜひ作っていただきたいと思うことしきりである。

妥協したくないもの

誰しもがいくつかのこだわりをもっているかと思う。自分の流儀というものだ。

そこまで大げさでなくても、飛行機に乗るなら日航ではなくANAにしているとか、シャンプーであれば資生堂ではなくロクシタンに決めているといったものだ。私はどちらでもいい。

食べものについても多くの人がこだわりを持つ。こだわりというより「自分の好きなモノ」と書いたほうがいいかもしれない。論理的なことにとらわれず、好き嫌いで決められるのでスッキリする。

私は食べ物にたいへん興味があるので、日本にいても外国に行ってもできるだけいろいろなものを食べるようにしている。ただひとつだけ、妥協しないモノがある。

鮨である。

そのほかの食べ物はファーストフードでも屋台でも、その場に応じてなんでも食べるが、鮨だけはおいしい店にしかいかないことにしている。たまに例外はあるが、、、、。

おいしいという言葉はひじょうにあいまいだが、自分の中の基準を満たす店だけということである。これは自分で決めている「ちょっとした贅沢」である。

だから回転ずしにはいかない。お腹がへっていて目の前に回転ずししかないような時でも、いや、そういう時だからこそ回転ずしには入らない。それならコンビニに入っておにぎりを食べる。

接待で鮨屋にいくこともあるが、気分的においしさが半減すると同時に満足度も下がるので、自分でいく。日本全国にどれくらい鮨屋があるか知らないが、私の基準の「ウマーイ!」水域に入ってくるのは30店前後しかないだろうと思う。

もちろんそうした店にネタケースはない。ネタケースは冷蔵庫なので、そこからネタを出してすぐ握っている鮨屋は水域外である。「ウマーイ!」鮨屋は自分のためにシャリを用意してくれ、さらに途中でシャリを差し替える。

会席もすばらしいが、鮨も繊細かつ精緻で、透き通るように美しい食べ物である。それだけにこちらもこだわざるを得ない。

満足のいくまで食べると少々値が張るが、鮨屋にいった時だけは伝票を気にしないようにしている。

最後に、最近気に入っている鮨屋をご紹介しておく。

鰤門(しもん)。銀座5丁目。

      

箱根の湯

          

      

中学時代の友人たちと箱根の温泉につかりに行っていた。あいにくずっと空から冷たいものが落ちていて、富士山どころか箱根の外輪山の山頂さえもみえない。雨霧が谷間までおりてきて、あたりをしっとりと包み込む。

今回の幹事役のS君が訊いてきた。

「アメリカにも温泉はあるの」

「たくさんあるよ。でも日本と違ってみんな水着で入るし、ぬるいなあ」

自宅にもどってから、あらためてアメリカの温泉事情(ホット・スプリング)を少し調べてみた。個人的にはカリフォルニアとバージニア、ウェストバージニアの温泉しかいったことがなかったが、驚くことに全米海洋大気局(NOAA)の調査によると、アメリカには1661ヵ所も温泉があった。

日本では湧水の温度が25度以上であれば温泉と名乗れる温泉法があるが、アメリカには確立された温泉の定義はない。ただNOAAでは水温が20度以上50度以下を「ぬる湯(ウォームスプリング)」と定めている。

それにしても、調べてみるものである。1661ヵ所という数字は、それだけで雑誌・書籍担当の編集者が「特集を組みましょう」「本を作りましょう」といい出しそうなインパクトがある。

ただ情緒のある日本の温泉宿は食事にしても浴室にしても、アメリカには太刀打ちできないレベルにまで昇華されているので、いくらアメリカが進歩的なことが好きであっても日本の温泉の伝統は真似できない。

日本からアメリカの秘湯を訪れても、たぶんガッカリさせられるだけである。

ペンギンの世界

今年6月、速読の集中講義を受けたあとも大量の本を読んでいる(参照:速読がやってきた)。

速読のレベルはいまだに初心者の領域をでていないが、200ページ前後の本であれば15分から20分で読めるようになってきた。ありがたいことである。そうなると、本屋に1時間いると3冊の本を読める計算になる。

もちろん買う本の方が多いが、面白そうだと思って最後まで読んでも、「もうひとつでした」という本の方が多い。過去3ヵ月、読んだ本をずっと点数評価しているが、10点満点で「10」を出した本はいまだにない。

アマゾンでは読者が本の評価を星印でしているが、5つ星が多く、ずいぶん甘い評価だなと思う。満点をどうして簡単に出すのだろう。本当に満足してしまうのか、それとも基準が甘いのか、私にはわからない。

速く読めるようになっても、ゆっくり読む時もある。限りなくスピードアップする時と、比較的のんびり活字に目をはわす時と両方あるので、読書の幅がひろがった。

速読を学んでもう一つよかったのは、自分の専門以外の本を読むようになったことである。思い返すと過去2,3年読んできた本の9割はアメリカ関連を中心に、政治、経済のノンフィクションの書籍だった。ところが今は小説も読むし、まったく違う分野の本も読む。

たとえばブータンの文化やペンギンの生態といった内容の本だ。高校、大学で本の面白さを知り始めた時のような感慨がある。

その中でも『ペンギンの世界』(上田一生著)は出色の面白さだった。8年前の本だが、楽しい書籍である。ペンギンはいま、世界に18種類、6000万羽いるという。

        ペンギンの世界 (岩波新書)

この本を手にしたとき、「昔は空を飛んでいたのか」という疑問が脳裏に宿ったが、その問いにしっかり答えてくれた。そして南極にいってアデリーペンギンと向かい合ったような感覚がおとずれ、胸が一瞬ホワッとした。

南極にはまだ足を踏み入れたことがないので「いずれは」と思っていたが、その思いが「行こう」に変わりつつある。