留学という国家戦略

日本経済は回復しつつあるとはいえ、労働人口の減少にともなった生産性の鈍化は今後も避けられない。GDPは今年中国に抜かれるかもしれないし、近い将来インドにも抜かれるだろう。

人口増加が当たり前の途上国が伸張するのとは対照的に、少子化の日本は経済のパイが小さくなっており、国際競争力も低迷している。解消するには二つのことが考えられる。今まで以上に国外で稼ぐか、他国から大勢の人を招くかである。

二つのオプションともに利点と欠点がある。国外で稼いでくるという考えはすでに過去何十年も企業や個人が実践してきたし、今後も継続されることに異論はないが、極論にむかうと危険である。 というのは、日本国内の高率な法人税などの影響で大手企業が拠点を国外に移転させてしまう可能性があるためだ。すでに利益の6割以上が国外からという大企業も多く、さらなる産業の空洞化が進みかねない。

もう一つは労働者の受け入れである。何百万という単位で外国人を受け入れると、社会問題が浮上することはほぼ間違いない。それを承知でホワイトカラーの労働力とブルーカラーの労働力の両方を大勢受け入れる手はある。私は100年後の日本を想像したとき、移民の混入は必然であろうと思うので、人種に起因する社会問題をいかに解決していくかは、国内で対処できる国際問題として今から前向きにとらえるべきだと考えている。

それを踏まえると、今から留学生をたくさん受け入れるべきである。日本にきている留学生は現在12万弱である。中国人がもっとも多く、次いで韓国、台湾、マレーシア、ベトナムとアジア諸国がつづく。この5カ国で全体の85%である。欧米の学生は少ない。

一方、移民の国アメリカは留学生を約62万もかかえる。人口が3億強なので見合った数ではある。驚かされるのは人口が約2100万のオーストラリアが約54万の留学生を受け入れていることである。英語圏ということもあるが、留学生が多い理由はオーストラリアの大学が大胆といえるほど積極的に諸外国に出向いて学生を招いている現実があった。教育(留学生受け入れ)をビジネスと捉えているのである。そのため、大学生の25%は外国人だ。

日本政府もじつは08年に「留学生30万人計画」を発表し、20年までに留学生数を30万にしようと動いているが、まだ数字には大きく表れていないし、ほとんどの国民はこの計画を知らない。今後政府主導の動きが、教育現場、民間企業、そして一般国民のレベルにまで広がり、BRIC’sを中心にした国から学生を大勢招き、後年の日本との関係構築に役立てなくてはいけない。

私は「留学は国家戦略」といったレベルにまで持ち上げていく必要があると思っている。政府にだけ任せておくべきことではない。他国から国内にカネを落とさせるという意味でも重要であり、日本の将来を見据えた時にもっと力を入れるべき分野である。

留学後に帰国した学生たちが日本を嫌ってもいい。親日派でなくても知日派であれば、いずれ関係構築が生まれる可能性はある。留学後に日本国内にとどまる学生を増やし、知力を活かしてもらう。本腰を入れるべき課題である。

 連載コラム:「分裂」したマイケル、「統合」したオバマ

上海の夜

アメリカ大統領選挙が終わってすぐ、航路で上海に渡った。

「堀田さん、船に乗って原稿を2、3本書きませんか」というお誘いに嬉々としてうなづいた。

船は横浜港からまっすぐ西進せず、瀬戸内海の島々を抜けてから豊後水道を南下し、それから東シナ海を横断する航路をとった。

飛行機であれば、成田から上海まで約3時間だが、ゆったり旅は4泊5日で進む。ありがたいことである。ただ、携帯電話もインターネットも使えないというのは、私のようなフリーで生きている人間にとっては仕事の依頼を失うことでもある。だが、開き直るしかない。

日常からの脱出をはかると、思わぬところで思わぬ発見がある。まず人との会話に深みが増す。自分自身について深く考える機会ができるので、思索と呼べるほど大したものではないが考えに深度が増す。

ただ残念なのは、船から降りるとまたいつもの私なのである。上海について携帯電話とインターネットの環境が整うと、すぐに忙しさの中に自身を埋没させてしまう。それで安心感があるというのはどういうことなのだろう。都市生活の弊害と言ってしまえばそれまでだが、もう逃れられないところまできている。

上海は相変わらずの風景だった。新築高層マンションの10メートル横には、今にも朽ち果ててしまいそうな古い民家が並んでいる。民家の二階の窓からは洗濯物が干されている。

それはパリコレでスポットライトを浴びる180センチの女性モデルと、着古したパジャマのまま路傍にたたずむ148センチの歯の抜けた老婆が並んでいる風景である。超近代と昭和30年代の日本の混在という風景は5年前と同じである。

「中国は半年行かないと風景がガラッと変わる」と中国通の知人に言われるが、私にとってはまだ想定内である。

この前まであった民家がなくなって高層ビルが建設されているという点ではあたっているし、以前まで農地だった浦東地区にマンションが建ったということでは見ていて面白いが、都市風景という視点からの上海は何も変わっていない。

世界で2番目に高い「上海環球金融中心(上海ヒルズ)」の最上階に上がって町の夜景を見ても、きらびやかさは増したが、あと5年たっても148センチの老婆の身長は伸びない。そんな印象である。上海の夜景が途切れる地平線の向こうはまだ暗黒である。

中国の本当の強さはそうした老婆がすべて他界したあとにくるのだろうと思う。漠然としているが、15年先というのが私の見立てである。

その時はほとんどすべての経済指標で中国は日本の上を行くだろう。IMD(スイスの国際経営開発研究所)が毎年発表する国際競争力のランクで、日本はすでに22位である。

上海の夜景を眺めながら、日本の不穏な行く先を憂うのである。

地球の裏側

取材で西アフリカのガーナを訪れていた。

町の景色は中米の田舎に似ていた。バナナやパパイアといった熱帯植物が町のいたるところに見られ、露天商が路肩に粗末な木製の台を置いてフルーツや野菜を売っている。ヤギが道に戯れ、陽光が頬にあたるとじりじりと皮がむけそうに痛い。自動車の排気ガスの臭いが鼻につくところも同じだ。中米と違うのは、周囲にいる人間を100人無作為に選ぶと全員が黒人である点だ。

今回、彼らの肌の色にばらつきがあることを知った。これまで、西アフリカの黒人たちは全員がつやのある「漆黒の肌」をしていると思っていた。25年前、ワシントンでコートジボアール出身のアリという学生とアメリカ人青年と私の3人で、小さな一軒家を借りて住んだことがある。

アリは夜になると「消えた」。それほど黒かった。「白人の血は混ざっていない」と胸を張っていた。「ブラック イズ ビューティフル」という言葉があるが、そのフレーズに嘘はないと思った。

逆にアメリカにいる黒人たちは、祖先のどこかで白人とまざっている確率が高いため、ほとんどの黒人は薄い黒色をしている。オバマのような色合いの人がほとんどだ。彼らのルーツは奴隷貿易によって売買されたアフリカ人女性と白人の間に生まれた子供たちである。それはアフリカを離れた後のことだ。

ところが今回ガーナを訪れて、ハッとさせられた。アフリカに残った黒人たちの中にも「ハーフ」がいたのである。やはり現地で取材しないと見えないものがある。

ガーナは西アフリカ最大の奴隷貿易の交易所があったところで、奴隷の総数は1000万人を超えた。コロンブスが西インド諸島に到達する約50年ほど前、まずポルトガル人が入植した。そしてオランダ人、イギリス人への引き継がれていく。「ハーフ」は次のようにしてガーナで誕生した。

海岸沿いに建つ城がある。世界遺産に登録されているエルミナ城だ。最上階には奴隷貿易を総監するオランダ人総督が住んでいた。城の1階には奴隷の女性たちが水浴びをする場所があり、総督は上からその様子を眺めながら、気に入った女性を自分の部屋に引き入れた。女性が妊娠すると、総督は売り払わずに解放した。少しばかりの情けである。その子孫たちがいまでもムラート(黒人と白人との混血)として現地にいる。

私はガーナ人にとって、肌の色というのは黒ければ黒いほど誇らしいものと思っていた。だが、逆だった。ホワイトへの憧れはかなり強いものがある。少しでも白くなりたいという意識が心中に潜んでいると現地で聴いた。

もう一つ学んだことは、ガーナ奥地から奴隷として連行さえた黒人たちは、やはり黒人の奴隷狩りによって強制的に連れてこられたことである。金品に目がくらんだ同胞が、同じ肌の人間を白人に売り渡したのだ。そうした事実について、ガーナではつい最近まで深く検証されることはなかったという。過去の暗い部分には蓋をしておきたいという意識だ。奴隷貿易についての最初のガーナ国内会議が開かれたのは21世紀に入ってからである。

奴隷の売買というと、ついアメリカ人を連想しがちだが、直接アフリカに出向いて奴隷船に黒人たちを乗せたのはヨーロッパ人であり、奴隷たちのほとんどは西インド諸島に送られた。アメリカの黒人たちは西インド諸島から二次売買されたあと、南部の綿花プランテーションなどで強制的に労働させられている。

近年、最後の到達地であるアメリカから、多くの黒人たちがガーナを訪れている。いわゆるルーツの旅だ。中にはガーナにUターンして移住する者もいるが、ガーナ人たちからは「白人」扱いされ、居場所がないという。ホワイトへのあこがれがある一方で、少しでも白人の血が混ざった彼らを「白人」扱いする矛盾が垣間見られる。

人種問題はなにもアメリカだけではない。アフリカにも歴然と残っていた。