長年の友人であり仕事仲間でもあるカメラマンのO氏と、上野の焼き鳥屋を数軒はしごした。
O氏とは20年くらいの付き合いである。彼はニューヨークで、私はワシントンで長年仕事をしたあと、互いに日本に戻ってきた。最初の仕事は雑誌「アエラ」で一緒にフロリダに行った時だったと記憶している。
最初に入った焼き鳥屋では、並んでカウンターに座った。我々の左横に4席分のスペースが空いていて、順次おひとり様の男性がやってきてグラスを傾けている。生ビールの人もいれば、ホッピーセット、焼酎のお湯割りを注文する人もいる。
それぞれが自分たちのペースで好きなものを食べ、飲み、そして1時間か1時間半くらいで帰ってゆく。私はカウンターの右端に座っていた。少しカーブのついたカウンターだったので、全員の顔が見渡せる。
ひとり飲みの彼らはほぼ間違いなく常連で、メニューを見ることなく食べ物を注文した。しかも全員が酒に強いように見えた。顔を赤らめずに2杯以上飲んでいる。こうした飲み屋ではかなり「普通」の光景である。
彼らは自分の世界を持っているし、それを誰からも邪魔されたくないとの思いがあるので、互いに話しかけることもない。店員とも話をしない。
ただこの光景をアメリカ人が見たら、「なぜ彼らは隣の人と話をしないのか」との疑問を抱くだろう。一人で寂しくないのかと訊くに違いない。しかもそれぞれのスペースはそれほど広くはなく、小声でも隣の客と話ができる距離なのだ。にもかかわらず全員が黙々と焼き鳥を口にいれ、酒を飲んでいる。そして静かに帰っていく。
まるで「自分はそこにはいませんでした」と断言できるほど存在感をなくしているかのごとくなのである。
私もたまにひとり飲みをするので、彼らの気持ちはよくわかる。けれども私はおしゃべりなので、すぐにマスターや店員さんと話をしてしまう。ひとり飲みの人が横にいたら話しかけてしまうこともある。
狭いスペースでひとり飲みの彼らが次から次へとやってきて、自分の空間と時間を大切にする彼らの姿をみて反省するのである。
「これからはひとり飲みの人にむやみに話しかけるのはよそう」と。