ボストン爆破テロから見えてくるもの

マサチューセッツ州ボストンで起きた連続爆破テロからすでに半月がたった。

いちおうアメリカの政治・経済から社会問題までを追っている人間として、同事件に何らかの見方を記さないといけない。ただ現地で取材をしていないし、当件で長い原稿をかいているわけでもない。

それでも半月たって見えてきたものがある。

それは実行犯ツァルナエフ兄弟の動機がイスラム過激派としての聖戦などではなく、単なる「若者の葛藤」の発露だったのではないかということだ。

病院にいる弟は、兄と2人でやった犯行であり、大きな組織(アルカイダ等)が背後にあるわけではないと話しているが、そこに嘘はないように考える。

というのも、アルカイダが背後にあったとすると、2001年9月11日のテロ事件から12年がたっていながら犯行そのものに稚拙さが目立つ。防犯カメラに姿をさらし、爆破後の行動計画も練り込まれていない。

もしイスラム過激派と密接な関係にあるとしたら、この程度のテロ行為では済まなかったはずだ。それは手作りの圧力釜爆弾という点でもみてとれる。

実は元CIA(米中央情報局)のテロ対策室にいたフィリップ・ムッドも同じことを述べている。

「単に人が集まるからという理由でボストンマラソンを選んだ安易さがある。それは大きな組織が背後にいないことをうかがわせる。9.11では19人が関与していた。しかも資金提供者がいて、訓練を施した教官もいた。思想的なバックグランドもしっかりしていた。そして少なくとも3年という歳月の準備期間のあとに犯行におよんでいる」

あのテロ事件と比較すると、兄弟の行動はお粗末である。チェチェンからアメリカにやってきて、社会に馴染めなかった現状への不満と怒り。兄弟がイスラム過激派に共有する思想を宿し、それを実践したようには思えない。

犯行動機を問われたときに、イスラム教徒として崇高な理念があったからだと思わせたいだけのようにも見えるのである。

周囲があ然とするようなことをする。そこから見える犯人像は、コロンバイン高校銃乱射事件の実行犯と似てくる。少なくともアルカイダが操っていないことだけは確かなようである。(敬称略)

自分を信じるということ

アメリカの人気TV番組に「アメリカン・アイドル」という公開オーディションがある。アメリカ版のスター誕生である。

日本でもフォックス・チャンネルで視聴可能だ。すでにシーズン12に入っており、今シーズンからマライア・キャリーが審査員に加わっている。

ひさしぶりに一次審査を観た。歌のうまい下手よりも、あらためて驚かされたのはアメリカ人の自身を信じる力である。

当ブログで何度も書いているのでくどいようで申し訳ないが、私はアメリカに25年も住んでいたので、アメリカ人の一般的な気質や文化はかなりわかっているつもりである。

だが、いまさらながら、参加者たちのほとんど根拠のない自信はどこからくるのか考えさせられた。

一次審査は4人の審査員の前でアカペラで歌う。ほとんどがダメだしを受けて敗退する。

敗れたあと、「うまくないのは最初からわかっていますから」とか「出直してきます」といったコメントはほとんど聞かれない。

「なんで私が落ちたのかわからない」「審査員はきっと疲れていたのよ」「彼らの目は節穴よね」と平然といってのける。

自分は決して悪くないという姿勢を貫く。こんなに素晴らしい歌声を持っていながらなぜ理解されないのか、という態度が主流である。

最初から音程が外れていた女性の歌に、マライア・キャリーは手を震わせながら、もう聴いていられないとばかりに席を立った。それでも歌い手は自信に満ち溢れた態度でいる。

すべての参加者がそうではない。だが実に多いのだ。

私はこの気質が手に取るように理解できる。挫けない、折れない、落ち込まない人間性がDNAに刷り込まれているかのごとくなのである。

酷評されて敗退した女性は、スタジオの外で待っていた母親のもとに駆け寄る。なぜ自分が落ちたのかわからないとまくし立てた。そして母親は娘につぶやくのである。

「あなたほど綺麗な歌声をもった人をしらない。素晴らしいのよ」

それはある意味で、親が子を慰める時の教科書のような言動だった。何が起きても子を信じ、肯定的な言葉を投げて安堵を与えるのである。

逆に、こうした親の愛を受けそこねた子は「自信」という人間がもつべき心の膨らみを抱きにくい。いや膨らみどころか、心にくぼみを宿して大人になることが多い。

この「自信」はいい解釈をすれば逞しさに通じる。だが増長すると過信になり傲慢へと変わる。

少なくともマライア・キャリーやプロの歌手が「あなたは歌手を目指すのは辞めた方がいいかもしれない」とアドバイスした後、「信じられない。彼らは疲れていたのよ」とカメラの前で断言できる精神構造は日本人はほとんどもちあわせない。

銃規制:最後に必要なもの

アメリカ、コネチカット州で14日起きた銃乱射事件は、またしてもアメリカの狂気の一面を世界中に晒すことになった。今年7月にもコロラド州で12人が亡くなった事件が起きている。

考えさせられるのは、なぜアメリカにこうした事件が多発するかということだ。しかも、いまだに先進国のリーダーという進歩的な立場にあると思われる国で、世界最悪と呼べるような犯罪が繰り返されている。

原因は多角的に精査しなければならず、主要メディアやネット上で散見される「銃規制が不十分」や「バイオレント・ゲームの人気」といったことは十分な説明になっていない。

実はアメリカ国内の銃を使用した凶悪犯罪件数は04年以後、減少している。

日本の刀狩りのように、国内にある約3億丁の銃を没収する案もこれまで何度となく浮上したが、部分的に実施されただけで成功していない。武器の保持を謳った憲法修正第2条があることもある。

世界的にバイオレント系のTV・コンピューターゲームがさかんだが、それが直接、銃犯罪の増加につながるかというと、その因果関係は微妙である。

1日10時間以上も熱中するゲーマーであっても、「むしろスッキリして犯罪など考えつかない」という人が大多数だ。やはり犯罪者の生い立ちや性格、生活状況、その時の精神状態が「行動のベクトル」を負に動かしていると解釈するしかない。

針が振り切れてしまう一瞬に、銃が手元にある。弾丸が装填されている。邪悪な精神的高揚が治まるまえに引き金を引く対象が眼の前にある。

これまで殺人事件を何度も取材しているが、人間が持ついくつかのベクトルが負の方向に重なったときに殺人事件が起こると思える。何かが陽の方向に動くと事件にいたらない場合がある。

国家による銃規制は残念ながら完全には機能しないだろう。残るは倫理感を高める教育と個の意志の強さを磨くことである。

最後は個の力に委ねられている。

やはり彼は市長がせいぜい

またアメリカ国内政治の話で恐縮だが、ホワイトハウスでオバマの初代首席補佐官を務めたラーム・エマニュエルという男がいる。いまはイリノイ州のシカゴ市長を務めている(ある男の勝利 )。

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彼がノースカロライナ州で行われた民主党大会2日目に登場して約9分間の演説をおこなった。内容はもちろん元ボスであるオバマを讃えるもので、大統領はホワイトハウスに入った初日から真摯に多くの問題に取り組んでいたと訴えた。

当時、エマニュエルは「大統領、どの問題から最初に取り組むつもりですか」と訊いた。オバマは「問題を選んでいてはいけない。すべての問題に取り組むんだ。そのために国民は私を大統領に選んだんだから」とはっきり答えたという。

さらに国民からの声に耳を傾けるため、毎晩レジデンスに引き上げる前に必ずホワイトハウスに届いた市民からの手紙を何通か持っていったという。

彼とオバマの2人にしかわからない話はそれなりに興味深かったが、彼の演説のできが芳しくなかった。10点満点で4点といったところか。

今回は元大統領のビル・クリントンとオバマ本人の演説が秀逸だっただけに、他の人たちの話が霞んでしまった。同時に、内容よりもいかに聴衆の心を捉える話し方ができるかできないかで政治家としての技量が計られることも再確認した。

それにしても、もう少しなんとかならないのか。(敬称略)