幻想の平等主義

先日、『日本語が亡びるとき』(水村美苗)という本を読んでいると、思わず線をひきたくなる一文にでくわした。

「平等主義は、さまざまなところで、私に現実を見る眼を閉じさせた」

いきなり、こんなことを書いても「なんのことだろう」と思われるかもしれない。前後の脈絡を少し説明しなくてはいけない。

著者の水村はこの本で小林秀雄賞を受賞していて、久しぶりに出会った秀抜なエッセイである。日本文学だけでなく話はさまざまな分野におよんでいる。

その中で、水村は日本の戦後教育が民主主義という名のもとに、子どもたちに平等主義を教え込んだと書いている。古い言葉であるが、「職業に貴賤(きせん)なし」という、職業に身分の高い低いはないという考え方を教え続けたというのだ。

平等主義が悪いわけはない。理念的には正しい。職業によって偉い人やそうでない人がいるという考え方をしてはいけないことは誰もが知ることだ。

だが水村は社会的経験を積んだのち、平等主義を真に受けるような教育によって「職業に貴賤がある事実に眼を閉じさせる」と書くのだ。子どもたちに社会は平等なのだと教えることはいいが、実際の社会に真の平等はない。

まだ実現していないと書くべきかどうかは疑問の残るところで、人間が人間である以上、真の平等社会は訪れないかもしれない。不平等社会のなかで平等主義を唱えることに対する矛盾があるのだ。

水村はさらに書く。

「この世には限られた公平さしかない。善人は報われず、優れた文学も日の目を見ずに終わる」

これが現実の世界である。大人は意識的に、または無意識的に知覚しているが、それを再認識するとガクンと肩を落とすような寂寥感しかおとずれないので、私は心のなかで跳ね返すことしている。(敬称略)