「世界の街角から」の答えです

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ただのハンバーガーに見えますが、中に挟まっているのは牛肉ではなくカニの肉。この「クラブケーキ・サンドイッチ」は前回の「世界の街角から」の写真(左下)に写っている「フィッシュ・マーケット(Fish Market)」というレストランで食べられます。

<答:米バージニア州。ポトマック川沿いのアレキサンドリア市。18世紀にタバコの葉の積み出し港として栄えた町>

森本防衛相誕生!

拓殖大学大学院教授の森本敏が新しい防衛大臣に任命された。

面識はないが、防衛問題のプロとして日本がとるべき防衛政策を着実に現場で執行できる方だろうと思う。現職の田中直紀とでは比較にならない。

私は勉強会で酒を飲み交わす防衛副大臣、渡辺周の起用が妥当と考えていたが、省内事情によりすぐにはトップに就けないらしい。

ただ森本の名前が公表された4日、民主党内部から疑問の声があがった。元首相の鳩山由紀夫は「ミサイルのスイッチを入れる権限を有する方が選挙の洗礼を経ないでよいのかとの議論も出てくる」と発言。「、、、議論も出てくる」というのは、政治家らしい責任転嫁の表現でしかない。

「、、、、洗礼を経ないでよいわけがない」と言明すればいいのだが、そうは言わない。しかも鳩山の言葉である。すでに政治家として終わっている人間の批判に耳を傾ける必要はない。鳩山よりも情けない元防衛相の一川は「あれでいいのかな」と口にする始末。両氏とも自身の政治家としての資質に目をむけるべきだ。

アメリカでもペンタゴンのトップに政治家以外の人がなることはよくある。現在の国防相のパネッタは下院議員やCIA長官を務めたが、前任のゲーツは政治家ではなかった。テキサスのA&M大学の学長を務めた元軍人で、彼の経歴は森本に似ている。

クリントン政権時代のペリーも政治家ではなかった。政治家が必ずしも閣僚になる必要はない。むしろ有能な適任者は外にいると考えた方がいい。

森本には普天間を片付けて頂きたいと思うことしきりである。(敬称略)

新聞が終わる日

職業がら今でも新聞は毎日読むが、すでに紙面の多くの記事が「いつの話?」と思えるほど昔のことのように感じられる。インターネットで前日にニュースを読んでいるからで、1つのテーマでいくつかの記事を読んだ翌日などは、もう新聞の役目は終わったと思えるほどである。

もちろんページをめくるうちに「こんなこともあったのか」という記事にも出会うが、それはインターネットでも同じだ。そうなると新聞を紙で読むという必要性はますます薄れてくる。

2006年にアメリカの首都ワシントンにある国防大学が発表した「新しいメディアの最終報告」には、2040年で「新聞紙の最後のリサイクルは終わる」としゃれた表現で新聞の終焉が告げられていた。だが40年までもたない。

先月、あと2年でアメリカ国内に残る新聞は3紙だけ(ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ウォールストリート・ジャーナル)になるという 予想を耳にした。それは紙の新聞を発行しなくなるということで、ネットだけに絞ったクリスチャン・サイエンス・モニター紙のような形態へと移行していくだろう。もちろん倒産する新聞社も出てくるので、淘汰されていく。

これまで1次情報の入手は大手メディアの特権であり、得意技のはずだった。だがいま記者が書く内容の多くがすでにナマ情報としてネット上に公開されていたりする。

情報を整理して読者に提示するという点で、書く人間はこれからも必要だが、別に紙を発行しなくてもいい。紙をめくることにノスタルジーを感じる世代は相変わらず書籍や新聞に愛着を抱くが、10年もたたないうちに80%以上のニュースはネットオンリーになるだろう。

幼少時代の友人Mと26日、痛飲しながら、変わっていく社会に対応するというより、こちらが社会を変えていく側になろうなどと語り合う。

これからは「変わる力」が必須だ。

笑いをとる難しさ

最近は人前に出て講演をしたり司会をしたりという機会がかなりある。

原稿を用意すると話が文語調になってつまらなくなるので、メモだけにしている。自分ではうまくいったと思っても、聴衆の個々の反応は真逆だったりするので恐ろしい。その逆もあり、自分では失敗だったと感じた時に「よかったです」という感想を頂くこともある。

ただ、かなりはっきりモノを言う人であっても、私に直接「あまりいい内容ではなかった」といった批判を口にすることはないので冷静でなくてはいけない。

そうした場でのコメントは、日本でもアメリカでもほとんど肯定的なことに限られる。本人が知らないところで否定的なことが出回るものだ。大学の先生の講義も同じである。

そうした場で笑いをとりたいと思っているが、これが難しい。普段、面白いことを言えない人が人前にでて笑いをとろうなどと思ってはいけないと、以前タモリが言っていたが、その通りだと思う。

ましてや、意図した通りの大爆笑を巻き起こすことなど夢のまた夢。昨日も80分、話をする機会があったが、笑いはとれなかった。

ネタ帳をつくってもダメだろうなあ。

フェイスブックとダーウィニズム

先日、ナスダックに新規株式公開(IPO)したばかりのフェイスブック。日本だけでなく、世界中で利用者数は伸び続けている。すでに9億人を超えた。

まだ利用していない人がいると、「エッ、まだやっていないの?」という言葉を吐く人さえいる。私も利用者の1人だが、以前より利用回数は減った。

2004年に起ち上げられたフェイスブックは、07年と08年で利用者を一気に拡大させた。大統領選でオバマが使ったことで、若者を中心にその利便性が認められた。だが私はその波に乗り遅れた。怖かったからである。

当時、ホームページ(のちに当ブログに移行)を始めて何年も経っていたので個人情報の漏洩などは心配していなかった。ただ、新しいものに対する恐怖があり、なかなか入り込めずにいた。

だがワシントン・ポスト記者のボブ・ウッドワードが利用者だったことが、背中を押した。彼の「お友だち」リストにはすでに数千名がリストされていた。彼のリストに入り、さらにアメリカの友人たちの多くが利用者だったので09年8月、ついに私も仲間入りした。

それから「お友だち」を増やし始め、1年ほどで200名を超えた。ほとんどがアメリカ人だった。日本ではまだ認知されていなかったからだ。

昨日、あるアメリカ人記者と話をしていると、「ダーウィニズムがフェイスブックに降りかかってきたな」という興味深いことを口にした。しばらく2人でそのことについて話し込んだ。

それはフェイスブックが自然淘汰の波にさらされ始めたということである。はっきり述べると「潰れる可能性もある」ということだ。

IPOしたばかりの会社で、世界の利用者は今後15億人以上いくかもしれない有望な企業であるにもかかわらずである。

なぜか。

実はアメリカでフィエスブックの利用者は急激に減ってきているのだ。それも過去3ヵ月くらいで顕著な現象だ。脱会するのではなく、アクセスしなくなっているということである。

前出のウッドワードの「お友だち」は軽く4000人を超えているし、知り合いのジャーナリストも3000人級の「お友だち」を持つ人が何人もいる。だが、ウッドワードは昨年秋以降、フェイスブックに書き込んだ形跡がない。他の知人たちの中にも「月イチ」くらいになったという人がいる。

飽きてきたのだ。実は私も過去1年、利用回数が格段に減った。以前は毎日アクセスしたが、いまは3日に1度ペースである。日本ではスマートフォーンの影響で、まだまだ利用者は伸びているが、本家アメリカでは停滞期に入ったと思える。

利用者になるとしばらくは「お友だち」づくりで一生懸命になるが、2年も経てばフーッと一息つく。日々、並んでいる書き込みは究極的には見なくてもいい内容が多いからだ。

一方、企業のマーケティングツールとしてはまだまだ使い勝手がある。創設者のザッカーバーグの狙いもたぶん、そこだろう。

しかし個人利用者が今後どれくらいの期間フェイスブックをやり続けていられるか、大きな疑問である。というのも、携帯電話や電子メールは必須のツールだが、フェイスブックはなくても何も困らないからだ。むしろ、企業の調査ツールとして使われる機会が増えるかもしれない。

アメリカはこの点で、どの国よりも先を歩いている。急に崖の向こうに落ちるかもしれないということだ。(敬称略)