クリスマスというバースデー

今でもはっきりと耳に残っているフレーズがある。

「私はクリスチャンではありませんのでクリスマスは祝いません」

大学4年時、K女史は受話器の向こうで明言した。数人の友人たちとクリスマスパーティをしている時に、K女史も呼ぼうということになり、私が店のピンク電話から彼女のアパートに電話をかけたのだ。

「にわかクリスチャンになって楽しんでいます」と言ってみたが、彼女は来なかった。

本当にパーティに来てもらいたければ事前に誘うのが当たり前で、「途中からノコノコいけませんよ」というのが彼女の本音だったかもしれない。ましてや、女性が身支度を整えて外出するには時間がかかる。

だから「クリスチャンではありません、、、」というのは、彼女なりの断りの理由だったとも思える。

日本人でもクリスチャンの方はいるし、本当にイエス・キリストの生誕を祝うことを目的にしたイベントもある。だが、私にとってクリスマスは実に複雑な思いが交錯する日である。

人からなんと思われようとも「クリスチャンではありません、、、」と突っぱねて、パーティにも行かず、ケーキもたべずと、クリスマスらしいことを拒否しつづけることもできるが、周囲を取りまく環境を考慮すると「なにもそこまで否定しなくてもいいのでは?」との思いが皮膚感覚で感じられる。

クリスマス商戦に乗った似非のクリスマス文化に巻き込まれたくないとの思いがある一方で、ツリーを飾り、チキン(アメリカでは七面鳥)を食べてプレゼントを買うという行為もしている。だから、「歓喜のエネルギー」というものが体内にあったとしたら、私は100%のうち60%くらいしかクリスマスを楽しんでいない。

先日、スイス人記者のクリスマス・パーティに招かれた。皆が口にするように、私も便宜的に「メリー・クリスマス!」と言ったが、この言葉に心がこもっていないことは自分自身が一番知っていた。それでもスイスのクリスマス料理を口し、ホットワインを飲んで、それなりに楽しんでいる。

ただ釈然としない。毎年クリスマスがくると、いくつもの思いが紛然としたまま浮遊し、うしろにも前にもいかない自分がいるというのが正直な思いだ。

ただクリスマスは飼い猫の誕生日でもあるため「ハッピーバースデー」に力を入れることにしている。

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