東京のアゲハ蝶

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私は生まれも育ちも東京都中野区である。

先週、実家の横にある緑地に、7,8匹のアゲハ蝶が舞っていた。近年、めっきりと見る回数が減っていたので嬉しくなった。

子どもの頃は、近所にまだキャベツやナスを作る畑があり、昆虫も多かった。小学校の低学年くらいまで、虫かごと網をもって近所を走りまわり、蝶やトンボ、セミをつかまえて昆虫採集にして夏休みの自由研究として提出したことがあった。

東京都内でも、まだそんなことができた時代である。いま近隣に畑はない。以前、畑のあった場所は宅地か駐車場に替わっている。

写真を撮ったあと、デジカメのスクリーンに写しだされたアゲハ蝶を眺めていると、妙に感傷的になって小学生時代を思いだした。

米国の多国籍企業の多くが米政府に法人税をまともに支払っていない――。

聞き捨てならないことだが、実は過去何年も、この状況に大きな変化はない。今月5日に発表された米大企業の納税報告書によると、2013年、米国庫に入るべき法人税約900億ドル(約9兆円)が納められていないことがわかった。(米多国籍企業はいかにして法人税を逃れているのか)

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6月10日、オバマ大統領のプライベートランチ。by the White House

タクシーの中へ(4)

相変わらずタクシーにたくさん乗っている。運転手さんとよく話もしている。

消費税が上がるのにともなって、初乗り値段も710円から730円になった。

だが売上が上がったという運転手さんは1人もいない。同時に、客数が大きく減ったという話もきかない。つまり値上げ前と後ではほとんど変化がないのだ。

「値上げで売上があがったというのは思い過ごしですね。ゼーンゼン変わりません。ハイ」(有楽町から日本橋までの運転手さん)

20円だけの違いでタクシーから足が遠のく人はほとんどいないらしい。むしろ景気はよくなっていないというのが、運転手さんたちの共通した思いだ。

「アベノミクスなんて、お兄さん(ありがとうございます)、実感あります?ないでしょう。5月の売上なんて、去年の方がよかったくらいだもの」(江古田駅から実家までの運転手さん)

大企業の中には「景況感が改善されてきた」というところもある。だが、それは本当にごく一部に過ぎない。なにしろ大企業というのは日本全国に約380万社の企業があるなか、たった0.3%に過ぎないのだ。

少し前、日本経済新聞の1面に「企業の景況感が改善」という見出しが躍った。直後に日経の記者と会う機会があったので、「あれは大企業だけと書かなくてはダメ」と言ったら、何も反論しなかった。

失業者が路上にあふれているわけではないし、暴動が起きているわけでもない。だが日本経済という言葉ではなく、一般の生活者が本当に収入がふえたとか、活気がでてきたという言葉を自然に口にするようにならない限り、アベノミクスが本物とは言いがたい。

タクシーの中へ入れば、それが如実にわかる。

先行しつづけるイメージの勝利

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6月の緑:旧軽井沢の裏道

多くの人が「軽井沢はいい」と言う。だが私にはなかなか理解できない。

別荘があるわけでもないし、定期的に通っているわけでもない。この地名が出れば出るほど自分との距離感が強まるのを感じる。

長野県の軽井沢町には年間800万ほどの観光者が訪れるという。しかし同町に住んでいる人はわずか2万人に過ぎない。観光シーズンでもない今はひっそりしている。

ただ軽井沢という言葉には涼やかな響きと、少しばかりハイソな心象がある。それは単に富裕層や著名人が別荘を構えているというだけでなく、「誰もが憧れる避暑地です」という事実を多くの人が潜在的に共有することを知っているからだろうと思う。

それを優越感と呼ぶことはできるが、実質的な優越というより「先行しつづけるイメージの勝利」と言った方がいい。

避暑ということであれば、南信州の遠山郷でも福島の会津磐梯山でもいいわけだが、遠山郷や会津磐梯山という地名は軽井沢という言葉の響きにどう立ち向かっても勝てない。

確かに、軽井沢の森の中に歩をすすめれば、東京の喧噪にはない清涼な空気と風を感じられる。東京の気温が30度に届く日でも20度代前半で、避暑地として十分にその役割は果たしている。

けれども、八ヶ岳山麓や北アルプス山麓の方がさらに夏の気温は低く、さらに旧軽井沢銀座のような人混みがない分はるかに過ごしやすいとも言える。

軽井沢にはいわゆる小洒落た店が集まっているという指摘があるが、どことの比較なのだろうか。人が集まる避暑地というステータスこそが人の心をくすぐり、「ちょっと軽井沢に、、、」というフレーズが力をもつ。

私が行くとしたら、今のようなシーズンオフか冬しかないだろうと思う。

世界は(やはり)広い

人の日常というのは、かなり限定された枠の中で終始する(ほとんどの場合)。

それは世界中のどこに行っても似たり寄ったりで、枠から飛びでることが小さな冒険であったりする。

小学校や中学校に通っている時は、自宅と学校の往復でほとんどの日々が終わる。生徒たちの世界というのは、その小さな枠の中で完結している。塾に行ったり、習い事のためにバスや電車に乗ることはあっても、それ以上の世界を体験することは稀である。

歳を重ねるにしたがって、その枠が広がっていく。枠というより、殻を破って違う世界へ飛び込んでいくということかもしれないが、それでも多くの人は限定された枠の中で生活する。 

自宅と勤め先の往復という生活に、むしろ安心感を覚えたりする。それが日常というものなのだろう。

想像や思索をめぐらせることは自由である。それによって枠を飛び出すことは可能だが、普通の考えではあり得ないようなことが違う文化圏で起きたりするのであ然とさせられることがある。

先月、アメリカのフロリダ州でとんでもない事件が起きた。本当に仰天の内容で、あらためて世界の広さを感じるのである。

同州北部にセント・オーガスチンという都市がある。大西洋に面した静かな所だ。そこに住んでいる62歳の女の行動(犯罪)は、ほとんど想像の枠を越えていた。というより、久しぶりにアメリカらしい豪快な事件と呼んでもいいかもしれない。

その女は隣人が大嫌いだった。喧嘩が絶えなかったし、顔をみるのも嫌だったらしい。世界中で同じ境遇の人は数え切れないほどいるだろう。

誰もが考えるのは、隣人へのいたずらか、嫌がらせである。本当に耐えられない場合は、自分が引っ越すというオプションもあるし、最悪の場合は死傷事件に発展するかもしれない。

女は何をしたか。

隣人(1人住まい)が外出したのを確認後、建設会社に電話をした。

「至急、ブルドーザーを手配できますか。実は簡易住宅(隣家)を所有しているんですが、すぐに取り壊したいんです。今は誰も住んでいません」

小さな家だったので、数時間で全壊したという。仰天したのは帰宅した隣人である。声もでなかった、、、に違いない。

女はすぐに逮捕・拘留されたが、数日後に保釈金1万ドル(約101万円)を支払って自宅に戻った。

気持ちいいくらいの犯罪で、といっても裁判でもめるのはこれからである。