過去を美化する

先日、若い女性と話をしていたとき、私がジャーナリストとして独立したときのことに話がおよんだ。

いまから25年も前のことである。

それまで勤めていたアメリカの会社を辞めて、会計上、小さな会社を起ち上げた。人に使われることがイヤだったこともある。「会社員は自分には合わない」との思いも強かったので、当然のなり行きであると思っていた。

希望を抱いて、といっても過言ではない心情だった。少なくとも、記憶の中ではそうだった―。

昨晩、当時の日記をとりだして25年前の記述を眺めた。希望に満ちあふれた思いはほんのわずかで、心のなかは焦燥、不安、憂心、怖気でいっぱいだった。

1990年7月12日の日記にはこうある。

「、、、どこから湧き上がってくるのかわからぬ焦りが口の中から入り込み、いまは胃壁に根をはっている。すべては自分の活動いかんである。何をやるにしても、もう人のせいにはできない。社会のせいにもできない、、、」

喜びいさんで独立したというのは自身が美化した過去の記憶であって、当時は不安で押しつぶされそうになりながらの日々が続いていたのだ。

日記を読み進めるうちに、当時の記憶が少しずつよみがえる。安定した収入を絶ち、年金や健康保険も自分で面倒をみなくてはいけない。有給休暇もない。薄暗いトンネルのなかを感覚だけで突き進むような恐怖がつねにあった。

それでも、いま振り返ると思い切って独立したことは私にとってはいい決断だった。

幸いにも、25年間も文筆業をつづけてこられたのは編集者や友人にささえられてきたからだ。あらためて感謝するしかない。