「ヒラリーはもう引っ込んでいてくれ」―こんな冷たい言葉が米リベラル派の一部から漏れている。

電話取材したワシントンの民主党関係は、米次期大統領選挙の最有力候補と目されるヒラリー・クリントン前国務長官の出馬に否定的だ、、、(ヒラリー・クリントンにはもう飽きたわ!)。

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2013年1月、オバマ政権を去る直前のヒラリー。

by the White House

日本の良心

久しぶりに見る顔だった。

会えばかならず皮肉たっぷりのことを言うが、イタリア人らしい陽気さを携えていて、別れたあとはいつも晴れた空を見るような気持ちになる。

話は必然的にサッカーの話題になった。すでにイタリア、日本両国は予選で敗退している。今年はドイツの強さが秀でているという、ごく当たり前の話に落ち着いたが、彼はイタリアのテレビ局の特派員である。

なんでもない会話の中で、「ザッケローニが驚いていたよ、、、」と言った。

これは直接会ったのだと思って訊くと、日本代表が帰国してすぐにザッケローニにインタビューしたという。話の内容は主に2点。

1つは日本選手は技術的にかなりうまくなっているが肉体的な強靱さという点で、いまだにヨーロッパ、アフリカの選手に劣ってしまうという点。いまさら指摘されなくとも、、、ということだ。2つめは負けて成田に帰国した時、何百人もが暖かく出迎えてくれたことに驚嘆したという。

ブラジルがドイツに負けた直後、バス放火事件が相次いだ。自然災害が起きたあとも、日本では略奪や強盗はほとんど見られない。そうした日本の良心にザッケローニは過去数年、本当に感謝し、癒やされてきたという。

小さなサッカーを標榜し、パスをつなぐサッカーが本番では機能しなかったのは自分の責任であることを述懐しながら、それでも日本にはいい印象をもったまま帰国できると言ったらしい。

「実際のインタビューのVを観たい?あっ、イタリア語だった、、、」

そう言うと右手にもったタバコの灰が路上に落ちた。(敬称略)

人の記憶に残す

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人の記憶に残す―。

これはなかなか難しいことである。サッカー・ワールドカップの得点シーンが何度もテレビで放映されると、そのまま脳裏に刻まれることもあるが、日常生活のなかで後年までずっと記憶に残るシーンというのは珍しい。

毎日、眼の前のことに関心が奪われて、よほどショッキングな出来事だったり、随喜の涙をこぼすようなことでもないかぎり、2年後まである日のシーンを覚えておくことは難しい。

ただ結婚式は別である。それは自分の結婚式だけでなく、親族や知人・友人の結婚式でも記憶の中にとどまる。鮮烈に心に刻まれる。その情景が昨日のことのように浮き上がってきたりする。

今日、久しぶりに結婚式に参列した。直後に行われた披露宴にもでて、若いカップルの門出を祝福した。

けれども、六本木ヒルズに隣接したホテルで行うという招待状を受けた時、一抹の不安があった。いわゆる豪華絢爛な派手さの中に全体がつつまれ、出席していてもどことなくいどころがないような思いにとらわれないか、心配していた。

けれども、憂慮は単なる思い過ごしに終わった。かなりの予算がかかっていることは式場のセッティングや料理、引き出物から容易に察しがついたが、清廉という言葉で統一されたかのようなすっきりした流れが秀抜である。

スピーチは新郎側と新婦側から1人ずつだけで、余興のようなものはない。お色直しはあったが、余計なものを排除しながら温かい祝福の空気が醸されていた。

私はこの情景を何年たっても忘れないだろうと思う。結婚式の美質というのはこういう点に集約されるのではないだろうか。

結婚式を挙げない人も多い。実は私も1回目の結婚では大きな式を挙げたが2回目はしていない。それで結婚生活に影響がでてくるわけではないが、人の記憶という点では大きな違いがある。

それでは2回目をいまからやるかと問われたら、、、やらないだろう。あとは日々の記憶を自身のなかにどう心に刻んでいけるか、にかかっている。

(写真はグランドハイアット・ホテル内のチャペル。7月6日)

集団的自衛権のあり方

首相の安倍が憲法違反を犯している。

憲法を改正せずに集団的自衛権を行使するという解釈改憲は、立憲主義に反することである。憲法をここまで歪めて解釈することなどあってはならない。現行憲法を破壊しているのと同じだ。

定期的に参加する勉強会のゲストとして、以前慶応大学名誉教授の小林節にお越し頂いたことがある。この暴挙を「憲法ハイジャック」と呼び、「安倍政権は錯乱しているとしか思えない。憲法の精神をひとひねりするなど、あり得ない」と憤慨していた。

本来、憲法は権力者(政治家)を縛るものだが、いまは逆に権力者が憲法を勝手にいじりはじめている。

私は集団的自衛権の問題を大きく2つに分けて考えている。1つは集団的自衛権そのものを認めるべきかどうかの問題。もう1つが今回の解釈憲法が妥当かどうかという点だ。

2つ目の答えから述べさせていただくと、冒頭で書いたとおり、憲法改正には国民の3分2以上の賛成が必要であって、それを無視して憲法を勝手に解釈することなどあってはいけない。昨年、安倍は憲法改正の手続きを定めた96条を改正しようとしたができなかった。

その時点で9条の改正は将来へと先送りされたが、今回「わがまま坊主がだだをこねまくって勝手に解釈を変えた」という結果になってしまった。ヨーロッパ諸国なら暴動が起きても不思議ではない。

1つめの集団的自衛権そのものの問題は賛否両論がある。私は改憲派なので、30年前から集団的自衛権は認めなくてはいけないと考えている。何の迷いもない。

アメリカは同盟国である。自衛隊と一緒に活動している米軍の駆逐艦が他国から攻撃を受けた場合、日本が指をくわえたままということはあり得ないし、あってはいけない。

日本がパシフィストとして戦後ずっと歩んできたのは理解している。だが同盟国の兵士が攻撃を受けて負傷し、それに応戦しないという考え方は不条理である。

この問題を日米両国の関係者ではなく、第3国の人間に問うた時、日本の立場を理解する人はほとんどいない。先日もインド人、スイス人、オランダ人に訊いた。

「なんで集団的自衛権を認めないのか理解できない。同盟国を助けないという選択肢はないでしょう」

多くの日本人は集団的自衛権を認めると、アメリカの戦争に巻き込まれるかもしれないと危惧する。日本は独立国家である。アメリカの言うことにいつも頷く必要はないし、日本が自分たちの利害にかなった判断をすればいいのである。いや、そうしなくてはいけない。(敬称略)