屈辱に支えられている

1週間ほどホテルにカンヅメになっていた。

このところ長いものを書いているが進み具合がよくない。朝から晩まで書き続けられる環境をつくろうと思い、カンヅメになることにした。

ずっと部屋にこもるので、海の見えるホテルの高層階で、かつ周辺に誘惑されるようなものがないという条件が望ましい。

その条件にかなったホテルがあり、部屋には仕事ができるしっかりした机もある。ワイファイも入っている。環境は整った。あとは書き続けるだけ、であった。

だが予定していた分量の半分も進まずにチェックアウトの日がきてしまった。

友人に電話すると、「そんなものではないのか」と慰めてくれたが自分の中では「失格」である。帰路、「なぜできなかったのだろう」という思いに苛まされた。

モノを書くという環境として申し分なかっただけに落胆である。以前もカンヅメになったことはあるが、その時は一応の予定原稿を書いたという記憶がある。

もやもやした気持ちを抱いたまま寝る前に少しテレビを観ていると、NHKの番組にイチローがでていて興味深いことを述べていた。

今年4000本安打を達成した彼の心を支えていたのは、人が偉業と呼ぶ結果などではなく屈辱によって支えられていたというのだ。最近の例はこんな具合だ。

4000本安打を打った10日後、先発を外されていた彼は試合後半、代打として登場する。試合はヤンキーズが大量リードで勝っている場面だ。他のレギュラーメンバーは休んでおり、スパイクさえ履いていない選手もいた。

イチローはそこで監督に代打を打診される。普通であれば、新人選手か控え選手の役割である。

「これ以上の屈辱はなかった」

彼はこうした思いによって支えられてきたというのである。4000本を打ったという事実は華やかだが、一瞬の快感でしかない。成功の裏には、何倍もの辛さや無念さがあり、それをバネにしているからこそ継続的な強さがあるのかもしれない。

とてもいい話を聞いて眠りについたが、それで原稿が進むわけでもなく、自分が動くしかないことを再認識するのである。