日常生活からアウトする

あけましておめでとうございます。今年もさまざまなテーマでものを書いていこうと思っています。

最近、偶然にも何人かの若者に「どう生きたらいいのか」といった人生論の質問を投げかけられた。

私は50代の半ばだが、正直に述べると年齢を重ねたからといってこの問いに答えがでているわけではない。ウンウンしながら寝返りをうち、寝られない夜があるわけでもないが、真摯な態度でこの設問に向き合うことはもうない。それは自身にとっても答えが出せないことを悟ったからである。

ただ冷静に考えると、年月を経るにしたがい、哲学的な問いに立ち向かわなくなったといった方が当たっている。結婚して家族ができると現実的な生活が自身に降りかかり、「どう生きたらいいのか」といった真っ当な質問を遠ざけるようになる。

それは貨幣経済の中でどうやって金銭を得ていくか、いわば「どう生活するか」という方にウェイトが乗ってしまい、「どう生きるか」ということが置き忘られるからである。

「どう生きたらいいのか」を訊いてきた若者は、人生の進路がはっきり見えないという。「どう生きるか」と「どう生活するか」の両方が見えていないようだった。

会社員や公務員になるというチョイスはもう最終的な安住の地ではないのではないかという。その通りである。

それだからといって、すぐに他のオプションに移れるだけの経験も資金もない。やりたいことが決まらないから何をするにしても本気になれない。長続きしない。

アメリカでインタビューした経営者の中に、「いやだと思った時はどんどん辞めたらいい」という人がいた。

「永遠に辞め続けることはないよ。どこかで『自分の地』をみつけられる」

その人は職業を20くらい替えて、最後は自分でビジネスを起ち上げて大成功していた。辞めることを恐れるなということである。

それは極めてアメリカ的な人生訓だった。無理に我慢することを美徳と捉えない。日本よりも柔軟な雇用市場によって支えられた考え方である。

それでも求めるものがある限り、合わないことに自分を合わせる必要はない。もちろん多少の忍耐は必要である。だが、変化がより好まれる時代になった。

まず現状から出る。「日常生活からアウトする」のである。辞めることもそう捉え直せる。

その中から見えるものが必ずあるはずである。