戦争をやめられない人間の特性

21世紀になって既に四半世紀が過ぎたが、人間はいまだに戦争をやめることができない。人類5000年の歴史を振り返っても、「戦争の歴史」と言い換えてもいいくらい争いを繰り返している。

毎朝、仕事始めにネットで世界のニュースをチェックするが、今日のトップは「ヒズボラ、イスラエルにロケット弾攻撃」だし、次のニュースも「ホルムズ海峡:無許可通航なら船舶破壊」と、きな臭い話が続く。戦争が悲劇しかうまないことは誰しもが知るが、国の政治を司るインテリと称される人たちがその悲劇を生み出しているのだから言葉がでない。

人間がいつの日か、戦争という悪行の邪悪性と陰湿性を認識して、2度と繰り返さなくなるとの希望的観測を持っているが、その願いが叶う日はまず訪れないということも承知している。戦争・争い事はある意味で、人間が抱え持つ特性であると思われるからだ。

子どもの時から友達と喧嘩をしただろうし、親子喧嘩や夫婦喧嘩もなくならない。そうした人間どうしの小競り合いの延長戦上に国家間の戦争があるとも考えられる。そうなると、人間が人間である以上、戦争というものはなくならないのかもしれない。

戦争の主な5つの要因

1. 領土・国境の争い: 領土の拡大や支配をめぐる争い

2. 資源・経済的利害: 石油、鉱物、水、食料など、限られた資源の獲得

3. 民族・文化的対立: 民族的な違いや不寛容による対立

4. 宗教・信条の相違:  宗教的な価値観の違いや、信仰の対立

5. 政治的闘争:     政権への不満、イデオロギーの対立、権力者の思惑 

これからの人生

いま68歳の私はときどき立ちどまって、「これからどうやって生きていこうか」と自問することがある。もちろん、明確な答えがすぐにでてくるわけもなく、「まあ、ここまで来たんだから、好きなように生きよう」と自身を慰めて終わる。

書くことがこれまでの私の生業だったので、今後も続けていくが、以前よりも書くペースは落ちている。経済的には年金を受け取りながら、金融機関に預けてある資金を使って余生を送るということになるが、「余生」という言葉の響きが実に淋しく、寂寥感が漂う。

日本人男性の平均寿命は厚労省の「簡易生命表」によると81.09歳で、女性は87.13歳。普通に生活していれば、あと13年は生きるということだが、13年という数字は考え方にもよるが「あまりにも短い」期間である。あと10年ちょっとで人生が終わってしまうのだ。

それでは「残りの人生でいったい何がしたいですか」と問われた時、私にははっきりした答えが用意できていない。これからどうしてもやりたいというコトがないのだ。言い方をかえれば、やり残してきたことがないといえるかもしれない。ある意味で幸せな人生を送ってきたともいえる。

今からあらたに目標を立ててそれに向かって努力して、、、とまるで中学生の努力目標みたいなことはしない。以前、当ブログで記したが、精神科医の和田秀樹さんの言葉通り、「心をのびやかにして、残された人生を楽しむためにも、どういうものであれ自分を縛るようなことはしない方がいい」というアドバイスに従い、日々楽しみながら生きていこうと思っている。

米・イスラエル VS イラン(2): 米国はイランを滅亡させるかもしれない

米・イスラエル両国の軍事攻撃でイランの最高指導者ハメネイ師が殺害されたことで、イランは報復として湾岸諸国にある米軍基地や関連施設に軍事攻撃を繰り返している。ただ米・イスラエルもイランへの大規模な攻撃を続けており、この戦争は両者「四つに組んだまま」しばらく続きそうである。

それでも、いま世界で米国を敵に回して軍事的に優位を保てる国家はなく、イランが劣勢に回らざるを得なくなるのは時間の問題であると言わざるを得ない。いくら国家のトップが米軍によって殺害されたからといって、どこまで本気で米軍に相対するつもりなのだろうか。

今日のニューヨーク・タイムズ紙は「米国とイスラエル両国によるイランの爆撃とイランによる報復は、世界経済への重大な脅威になっている。それ以上に警戒すべきことは、イラン政府がタガが外れたようになり、さらに過激な報復を繰り返すかもしれない」と指摘した。本当にイランのような国家が暴走した場合、中東地域だけでなく世界中に悪影響を及ぼすことは容易に想像できる。

先ほど(3月4日午後2時半)、イスラエルのギラッド・コーヘン駐日大使が外国特派員協会で記者会見し、「イランは中東でもっとも地域を不安定化させる国なので、イスラエルは努力しないといけない。周辺諸国は手を取り合って、よりよい中東を作らないといけない。平和を願う」と語った。

イランだけが悪者扱いにされることは国際関係上プラスに働かないので、米国や日本を含め、関係諸国は冷静に状況を判断して行動していかなくてはいけない。

日本では夫婦別姓は無理なのか

今朝の朝日新聞一面トップに選択的夫婦別姓の記事がでていた。日本では相変わらず夫婦別姓が認められておらず、本当にモノを変えることが「下手」な国なのだなと思ってしまう。

私などは「日本よ、いったいどうした。時代を止めている場合じゃないだろ」と思うが、過半数の国会議員は夫婦別姓の法制化に反対している。最新の世論調査では反対派議員が47%で、賛成派は30%でしかなかった。

結婚後、夫婦同姓にする制度は、1898年に制定された明治民法から続いているもので、これだけ長い間続いてきたのだからこれからも大切に継続していきましょうと考えるのか、こんなに古い法律は現代社会にそぐわないから変えるべきと考えるかに分れる。

イギリス、ドイツなどG7諸国はもちろん夫婦別姓が可能で、ロシアなどは1926年にすでに別姓の選択ができるようになった。アジアでも中国、韓国は夫婦別姓を実現しているし、北朝鮮でさえも夫婦別姓である。

ただ、日本の伝統を守りたいと思う人たちは、「明治政府は紀元節を定めるなど、古来の日本の伝統を強調する傾向にあった。日本の伝統を主張する人々は明治時代の規範を重視する傾向がある」と述べており、一部に今でも“変化”を嫌う流れがある。しかし、そういう方々には「本当にこのままでいいんですか」と問いたい。

冬季五輪開幕

ミラノ・コルティナ五輪が始まった。夏季だけでなく冬季の五輪も毎回テレビにかじりついているので、今回の五輪も長い時間をテレビの前で過ごすことになりそうだ。

ただ、私はいろいろな競技を観たいタイプなので、日本のテレビ局の五輪中継にはいつも欲求不満を抱いている。特に地上波は限定的な時間枠で、しかも日本人選手を追うことがメインになるので、他国の有名選手を観たいという時はインターネットで動画を探るしかない。

それは致し方ないことかもしれないが、もう少し視聴者にチョイスを与えてくれないだろうかと長い間思っている。将来的には、ほぼ全種目が「普通に」観られるようになることを望んでいる。