タクシーの中へ(9)

しばらくご無沙汰していた「タクシーの中へ」。相変わらずタクシーにはたくさん乗っている。先日、出先から仕事場にもどる時に乗ったタクシーの運転手さんの話には同情した。

ドアが開いて後部座席に座ってすぐ、新人の運転手さんであることがわかった。左手に黄色の腕章をつけており、「実習中」という文字が読めたからだ。ただ新人という年齢ではない。50歳に手が届くかどうかといった風貌である。ここは訊くしかない。

「実習中というのは、まだ始められて間もないということですか」

「そうです。3カ月目です」

なぜタクシーを職業として選んだかは個人的な事情がありそうだから訊かなかった。それよりも、ある程度の年齢になって運転手さんを始める苦労や最近の客の態度などを聴きたかった。運転手さんは思っている以上に饒舌で、まるで私のような客を「待ってました」と言わんばかりにとめどもなく話をつづけた。

苦労はやはり地理だと言った。東京の道は知っているつもりだったが、プロの運転手としては最短で目的地に辿りつくことが求められる。ナビが最短ルートを示さないことは多くの人が知る通りだ。特に都心から自宅に帰る客は最短ルートを知っているため、少しでも遠回りになる道を通ると怒るという。

「怒られてばかりです」と笑った。だが普段はどの辺りを走っているのかと訊くと、少し間を置いてから寂しい表情になった。

「最初は新宿を流していたんです。でも心が折れることが1日に2回もあって、恵比寿周辺に移りました」

「どうしたんですか。訊いてもいいですか」

ある日、新宿から若い女性を乗せたという。運転手さんの娘さんよりも若いくらいの年齢だった。道を間違えた時、罵声を浴びせられたという。それはこれまでの人生で言われたことのないような邪悪で凶暴な言い回しだった。しかも、同じようなことが1日に2回もあったというのだ。

「さすがに心が折れました・・・」

「それでも辞めようとは思わなかった?」

「始めたばかりですしね。それで新宿から恵比寿にしたのです」

タクシーを降りてから、腕章をつけていることが逆に主従関係のようなものを助長させることになっているとも思った。ただ会社の規則で、新人は半年間つけなくてはいけないという。

降りる時、「頑張ってくださいね」としか言えなかった。