引き戸を抜けると、白い玉砂利が敷き詰められた庭が眼にはいる。隠れ家と言える懐石レストランK。
妻の後輩の女性に教えてもらった東京都台東区谷中にある木造一軒屋は何度おとずれても気持ちが和らぐ。下町の暖かさがつたわる貴重なお店である。
Photo by the White House (2013年7月当時のヒラリー)
「外交政策については、彼女の考え方に賛成します」
彼女というのは米大統領選の民主党トップランナーのヒラリー・クリントン氏(以下ヒラリー)だ。発言者はネオコン(新保守主義)の論客、ロバート・ケーガン氏である。
ケーガン氏だけでなく、いまネオコンの重鎮たちは共和党レースで首位を維持するドナルド・トランプ氏(以下トランプ)ではなく、ヒラリーの支持に回っている。
ネオコンという言葉は懐かしい響きさえある。
起源は1930年代にまでさかのぼれるが、世界的にネオコンの名前が流布したのはブッシュ前政権時代で、タカ派的な外交政策の政治イデオロギーや人物を指す(ついにネオコンまで、共和党からヒラリー支持続々)。
しばらくご無沙汰していた「タクシーの中へ」シリーズ。
相変わらずタクシーにはよく乗っているが、最近、驚いてひっくり返るような話を運転手さんから聴けていない。饒舌な運転手さんが以前よりも減ったためかどうかはわからない。
今年はアメリカ大統領選がらみで「季節労働者(季節労働者、継続中です)」になっているので、いまだにテレビ局やラジオ局に出入りしている。テレビ番組にゲスト出演した時は、黒塗りの車が自宅と局を往復してくれるが、ラジオ局は基本的に車をだしてくれない。
ただ黒塗りのハイヤーでの移動を「日常だと思ってしまう」ことほど浅はかなことはないので、いくら回数が多くなっても電車にも乗るようにしている。
先日、日本テレビの運転手さんと長い時間、話をする機会があった。軽妙な語り口の方で、運転しながら興味深い話をしてくれた。
「私たちが送り迎えをするのは番組ゲストの先生や政治家、スポーツ選手がほとんどですね」
「芸能人の送迎はしないんですか?」
「ほとんどないです。彼らは事務所の車に乗っていますから。ジャニーズの有名タレントさんたちは1人1台じゃないですかね」
「それじゃあ、普通のタレントさんは」
「タレントさんによりますね。たとえば森〇中のお三方はいまでもタクシーですかね。黒塗りの車は出ないです。タクシーで帰っていただいていると思います」
テレビ局も人を見ているということなのだ。ギャラにしてもそうで、テレビ業界は歴然とした、あからさまな格差社会なのである。
ショーンKことショーン・マクアードル川上が川上伸一郎であることはすでに万民の知るところであり、彼の経歴詐称は芸能ゴシップのヒトネタになってしまったので、ここでは敢えて真偽を追求しないことにする。
ただ、彼が抱える心の闇に少しだけ触れてみたいと思う。
邪推で終わるかもしれないが、私の興味は経歴詐称や整形疑惑、出生の秘密といったところより、なぜ川上が単なるホラッチョで終わらず、日本中を騙すほどの大うそつきになっていったかの過程にある。
「子どもは正直だ」という言葉がある。それは多くの子どもが周囲の状況を考慮せず、思ったことを口する時に使われる表現で、ウソをつかないという意味ではない。むしろ小学生は大人以上に多くのウソをついたりする。
大人になってからも、口からでまかせを言う人も多いし、自分を大きく見せたい欲求によるウソ、虚栄心や見栄からくるウソ、騙すための意図的なウソ、失敗を穴埋めするためのウソなど動機は数え切れない。
自身を社会の中に投影したとき、理想とする実像を手に入れられなかった10代後半から20代にかけて、川上はウソの経歴を自身の表皮にかぶせることで、少しだけ自身のコンプレックスを表面的に修正していく。
ハーバード大学MBA卒という学歴は、川上にとって最高級の表皮だった。本物ではなく合皮だけれども、磨き込むことで本物に見せかける作業を惜しまなかった。
父親がアメリカ人と日本人のハーフというくだりも実はウソのようだ。中学時代の同級生の「(当時は)日本人にしか見えなかった」との言葉からも、生い立ちさえもウソにまみれているように思える。
白人への劣等意識というより、日本社会のなかで圧倒的なまでの優越意識を獲得し続けたかったにみえる。そこからは、かなり強いナルシシズムを感じないわけにはいかない。
川上と実母の関係はほとんど報じられていないが、ナルシストは母親との特異な関係から生まれることがある。ふんだんな愛情を注がれもするが、家庭内に問題がある場合も多く、貧困や家庭内暴力がみられることもある。
親がナルシストであることもあり、川上は親から能力以上の期待をかけられていたことによるアイデンティティーの危機に直面していた可能性がある。ナルシストは自尊心を損ないやすいため、成人になってからは他者からの関心が常に必要になる。
注目されることで自己愛が保たれるのだ。
私は整形を否定しないし、整形手術をすることで本人が自信を獲得し、納得のいくものであれば結構だと思う。しかしハーフ顔を造りだすことはできても、生物学的にハーフになることはできず、絶えず現実とのギャップにさいなまされる。
英語力を鍛え、経営の知識を身につけてコメンテーターやラジオのパーソナリティーとして評価されつづける努力をすることで、ナルシストの面目が保たれる。
合皮であることがばれてしまったいま、彼に必要なのは自虐かもしれない、と思う。
再起があるとすれば、過去の自分を誰よりも過激に、辛辣に落としこめる術を獲得し、披露することである。自ら地に落ちたことを笑う自虐の術しか再起の道はないように思えるが、いかがだろうか。(敬称略)
ジャーナリスト安田純平がシリアでヌスラ戦線に拘束されている動画が公開された。安田である確証はないが、ほとんど本人と思って間違いないだろう。
1年ほど前に後藤健二がイスラム国に拘束され、殺害されたときに感じたことと同じ思いが去来している(同じジャーナリストとして思うこと)。ジャーナリストがリスクを背負い、いま起きている事象を世間に報道する価値は十分にあると認識しているし、その重要性も理解しているつもりだ。
ただ戦争ジャーナリストのリスクの高さは個人で限定できる場合とそうでない場合がある。自己責任という言葉がよく使われるが、拘束された時点から自分自身で責任を負えない状況が生じている。
後藤も、おそらく安田の場合も、イスラム過激派グループに拘束され、たとえ死という最悪の事態にいたったとしても、いたしかたないと考えているかに思える。2人とも内戦が続くシリアで、不測の事態に遭遇してもそれは本人の責任であり、誰からの非難も受けたくないといった気骨のようなものがこちらに伝わってくる。
それはいくつかの映像で彼らが語る言葉の節々から知覚できたし、そこだけは誰にも踏み込まれたくない領域であるかにも思える。つまりリスクを背負うのは自分たちであり、危機に直面するのはまぎれもなく本人であるため、拘束されて殺害されたとしても誰からも文句は言われたくないという心境である。少しばかり冷たく感じられるほど、こちら側は突き放された感がある。
彼らは映像であれ、活字であれ、リスクの高い経験に根ざした情報を提供して対価を得ている。特に映像であれば、高額な報酬につながる。それが彼らの報道スタイルなのであれば、何もいわない。
しかし昨年夏、安田純平が過激派グループに拘束されたかもしれないとの一報を聞いた時から、途方もない危うさを感じていた。「同じジャーナリストとして思うこと」で記したように、丸腰で敵陣へ入っていく姿勢は剛胆ではあるけれども、計り知れないリスクを増長していることも確かなのだ。
犯罪者として咎められるべきなのは過激派グループであるが、現実問題としていま彼らに重罪を科すことはできない。取材を敢行するのであれば、アメリカの特殊部隊に帯同する軽快さと体力、語学力を身につけてから戦地に入りこむのも妙案かもしれない。
一般的に特殊部隊は記者を同行させないが、戦争ジャーナリストが前線で身を守る術としては、プロの兵士に守ってもらうことが鉄則である。いまのシリアは丸腰のジャーナリストにとってはあまりにも危険な場所である。
願うのは、安田が無事に帰ってきてくれることだけである。(敬称略)