極限の美

「絵かきでは誰が好きですか」

この質問を受けたとき、私は20年ほど前から「ルノワール」と答えている。

「あまりに普通」と思われるかもしれないが、彼の油絵が一番「胸にくる」のでしょうがない。六本木の国立新美術館で開催されているルノワール展に足を運んだ。

ンー、やはり「いいな」という思いが強まった。

ルノワールの絵を好きになったきっかけは「喫茶店」、、ではない。ある絵との出会いだった。

ワシントンにスミソニアン博物館群があり、その中に近代美術をあつかった「ナショナル・ギャラリー・オブ・アート」という美術館がある。そこに「踊り子(Danseuse)」という絵がある。

立ち止まって、しばらく動かなかった。いや動けなかった。胸ぐらをつかまれて、その場に押しつけられる思いだった。美術品のよさは感性への直接的な刺激である。その絵のどこがいいのかという理由は、あとづけの説明でしかない。

人に説明する時に、「いやあ、よかった」だけでは言葉が足りないし、自分自身がなぜ動けなかったのかを自身に納得させるためにも言葉が必要になる。けれども、一幅の絵画がもつ力は、時に1万語の説明よりもインパクトが大きい。どんな説明も弱々しく思える時がある。

だからナマの絵に勝るものはない。画集や図録から動けなるほどの感銘を受けることは少ない。ひとつには大きさが伝わらないからだ。

「踊り子」は大きな絵だった。縦142センチ、横93センチというサイズである。逆にルーブルの「モナリザ」は想像よりもはるかに小さな絵だった。

そしてナマの油絵だからこそ感じる肉質と色の濃淡によって、自身の内部に自分だけの絵が刻まれる。ワシントンに住んでいる間、あの絵を観るためだけに50回以上は行った。

残念ながら、六本木の展覧会に「踊り子」は来ていなかったが、あとづけの説明を少しすると次のようになる。

一言で述べると「プラトン的イデア」なのである。モデルである「踊り子」の美はキャンバス上にはない。日常を超越し、モデルから醸された女性の真の美しさが抽出され、観念的な領域にたもたれた極限の美が描かれている。

一人の女性から普遍的な美を抜きとるルノワールの力は、他の画家にはなかなか真似ができない。私はボナールもマティスも好きだが、ルノワールが先頭にくる。

けれども「踊り子」は、1874年の第1回印象派展で「デッサンがでたらめ」と酷評される。けれども私にとってはこれ以上の絵画はないのである。