たまに鳴らす「ジャーン!」

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ぜいたくと言うほどでもないが、ときどき自宅近くにある公共施設の音楽室を1人で借り切る。

そこにピアノが置かれているので、とにかく弾きまくる。普段は楽譜をもっていかない。自分の思うままに指を動かして、過去に覚えた曲はもちろん、即興で鍵盤をたたく。

実は小学校2年から6年まで、ピアノのお稽古に行かされていた。嫌でイヤでしょうがなかった。中学に入ってから投げ出した。母親は残念がったが、私はほっとした。

けれども30数年前に再び始めた。当時、アメリカの首都ワシントンに住んでいて、学生3人で借りた小さな1軒家のリビングに古いピアノが置かれていた。

「そういえば小さい頃、弾かされていたなあ」と思いだしながら指を動かすと、けっこう覚えている。

その後、自分でピアノを買って弾くようになった。あれから30年以上がたち、今では弾かされていた立場から自らが弾くという姿勢にかわった。

だが、いまだに昔の曲が中心というのはどうしたことか。それでも今は母親に感謝しなくてはいけないと思っている。

エボラ

あまり煽りたくはないが、エボラ出血熱の感染がひろがっている。

先月末にJBPressで書いた記事(エイズよりはるかに怖いエボラ出血熱、蔓延の兆し)の続報をお知らせしたい。

記事中でパトリック・ソイヤーさんという方がナイジェリアで亡くなったと記した。彼と接触のあった方が首都ラゴスと飛行機で何人もいて、感染が心配だったが、憂慮していたとおりの展開になりつつある。

ナイジェリアではすでにソイヤーさんを世話した看護師の方が亡くなった。さらに今週半ばまでに7人の感染者が判明し、現地の報道(8日)によると新たに5人がエボラ・ウイルスに感染しているという。それ以外にソイヤーさんと接触のあった27人が監視体制のなかに置かれている。

恐ろしいのは致死率の高さだけでなく、感染後3週間以内に発病し、患者によっては数日で死亡してしまうスピードの速さだ。

アフリカ以外では、すでにサウジアラビアのビジネスマンが西アフリカへの出張後、帰国後ジッダで亡くなった。スペイン人神父はリベリアで感染後、現在マドリードで治療中だ。アメリカ人2人もアトランタの隔離病棟で治療を受けている。

西アフリカでは医師や看護師が死亡していることも恐怖心を助長させている。ただウイルスを蔓延させない適切な処置をすれば感染は防止できる。

日本も他人事ではない。厚生労働省は「いますぐ感染者・患者を治療できる」という体制だけは整えておかなくてはいけない。

「まだ死なないんですけどね」

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記者会見の冒頭で、「死にそうなんです」とおどけてみせた。

大病をわずらって体重を落としたことは誰の眼にもあきらかだ。でもすぐにこう言った。

「まだ死なないんですけどね」

声には張りがある。

「世界のオザワ」と言われ続けて何年になるのだろうか。指揮者小澤征爾(78)は間違いなくまだまだ現役でいるつもりだ。

1992年にはじまった「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」という音楽祭を、来年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」という名称に変える。日本外国特派員協会の会見に集まった200人超に対し、これからもトップでいつづけるという印象を与えた。

「音楽ってね、昔から一番早く人に伝わるでしょう。文学は読んで理解しないといけないけど、音楽は耳から直接入るから。これからも音楽を大事にしなくてはいけない」

髪をかき上げながらはにかむ姿は、いまだに少年のようでもあった。(敬称略)

東京ドームの座席から

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友人のK氏から巨人―広島戦のチケットを譲り受け、8月1日の東京ドームの試合を観た。

ドーム内に入ってまず気づいたのは冷房の強さだ。自分の席についても半袖からでているヒジをさすったくらいである。ただ試合が進み、お客さんが増えてくるにしたがって温度が上がっていった。

照明はプレーヤーが試合しやすいような明るさに調整されていると同時に、観客もまったく問題なく球場の細部にまで眼がとどく配慮がされている。

試合は巨人・菅野対広島・前田の投げ合いで、12回延長でも決着がつかずに2対2の引き分けで終わった。

気になったのは、ビールのタンク(約15キロ)を背負って階段を上へ下へと移動する売り子のギャルたちである。視界には常に2,3人が入るほど多く、ついつい眼がいってしまう。一緒に行った友人は「可愛い子がおおい」とまずコメント。

少し観察していると、プレミアムモルツ、一番搾り、エビス、スーパードライのタンクを背負っている女子たちの可愛らしさが秀でている気がした。邪推かもしれないが、彼女たちをトップにして、ハイボールや梅酒、さらにアイスクリームや170円のジュースを売る女子たちへ続く可愛さのヒエラルキーができている。

私でもそう思うのだから、こうしたことにもっと敏感な本人たちは必ずや気づいているはずである。それを現実と受け止めているのか、ジュースを売る子が「いつかはわたしだって」と思っているかはわからない。

試合内容と同じくらい彼女たちに気がいってしまうところがおじさんの性(さが)か。