テレビとラジオ

ジャーナリストという肩書を名乗りはじめてからおよそ20年がたつ。そのほとんどを活字の世界で生きてきた。新聞、雑誌、書籍である。2年数カ月前にアメリカから帰国するまで、確実にそこが自分の世界だった。

日本に戻るとテレビやラジオから少しずつお呼びがかかるようになった。電波というメディアの現場に足を踏み入れると、これまで知っていたメディアとは何かが違う。

いきなり英語の話になって申し訳ないが、「メディア(媒体・語源はラテン語)」という単語は複数形である。だから本来「テレビメディア」とか「新聞メディア」という形では使えない。メディアの単数形は「ミディアム(洋服のミディアムと同じ)」という単語なので、正確には「テレビミディアム」「新聞ミディアム」というべきである。

しかし日本語には単数形と複数形の違いを語形変化で表記する習慣がない。全国の報道機関各位に「これからミディアムも使ってください」といいたいところだが、誰も耳をかさないだろう。

話をもどそう。テレビやラジオに出演する前から、活字と電波の世界の違いはわかっているつもりだった。たとえば雑誌の原稿を書く時、通常はかなりの熟考時間が与えられている。早く書けた時は原稿を送る前に「一晩寝かせて」朝起きてから読み返すことにしている。

さらに書いた原稿が雑誌などに掲載されて書店に並ぶまでには、デスクや校正士など何人かが目をとおして幾層かのフィルターにかけられる。最近では送った原稿が数時間後にインターネットにアップされることもあるが、少なくとも活字の世界には考える時間がある。ところがラジオやテレビではナマの姿を晒しながら、瞬間で勝負していかなくてはいけない。

「堀田さん、テレビは瞬間芸が要求されますから」

民放テレビ局のディレクターが諭すように言った。

バラエティー番組に出るわけではないので笑いをとる必要はないが、「テレビミディアム」らしく、視聴者の心に残るような発言が求められる。さらに、ニュースといえども会話形式で番組が進行する場合がほとんどなので、沈黙は許されない。

沈黙、、、、違いはこれである。

活字の世界は沈黙が許されるというより「沈黙は金」という格言がいまだに成り立つ世界である。沈思黙考という四字熟語が活きている。書き手に与えられた時間的猶予は大きい。

テレビの場合、収録であれば1時間から数時間も話をして実際にコメントが使われるのは15秒という時もある。もちろん1時間の話の中で、どの発言をテレビ局側がつかうかは先方の自由である。自分ではいい話をしたつもりでも、その部分が使われないことの方が多く、逆に使ってほしくない部分を放送されたりするので、活字で生きている人の中には映像に出ないと決めている人もいる。

ただ私はテレビとはギブ・アンド・テイクだと思っている。それが人生だという気持もある。むしろテレビの影響力を利用しない手はない。少なくとも活字より数十倍は大きい。まして新聞・雑誌の下降カーブは電波よりも大きい。もちろん雑誌の長い原稿と比較すると、情報量は逆に数十分の一になる。数万人の雑誌読者か数百万人の視聴者かという選択があるとしたら、私は欲張りだがどちらにも手を差し伸べたい。

ラジオもAM、FMともに数局ずつ出演させて頂いているが、話したいことをかなり自由裁量にしゃべることができるミディアムであり、伝えるという点においては活字とテレビの中間に位置しているかもしれない。

6月1日から4日まで毎朝6時から、J-WAVEのパワー・ユア・モーニングというコーナーに出演するので、早起きの方はお聴きいただければ幸いである(J-WAVE 別所哲也)。 (敬称略)