取材で西アフリカのガーナを訪れていた。
町の景色は中米の田舎に似ていた。バナナやパパイアといった熱帯植物が町のいたるところに見られ、露天商が路肩に粗末な木製の台を置いてフルーツや野菜を売っている。ヤギが道に戯れ、陽光が頬にあたるとじりじりと皮がむけそうに痛い。自動車の排気ガスの臭いが鼻につくところも同じだ。中米と違うのは、周囲にいる人間を100人無作為に選ぶと全員が黒人である点だ。
今回、彼らの肌の色にばらつきがあることを知った。これまで、西アフリカの黒人たちは全員がつやのある「漆黒の肌」をしていると思っていた。25年前、ワシントンでコートジボアール出身のアリという学生とアメリカ人青年と私の3人で、小さな一軒家を借りて住んだことがある。
アリは夜になると「消えた」。それほど黒かった。「白人の血は混ざっていない」と胸を張っていた。「ブラック イズ ビューティフル」という言葉があるが、そのフレーズに嘘はないと思った。
逆にアメリカにいる黒人たちは、祖先のどこかで白人とまざっている確率が高いため、ほとんどの黒人は薄い黒色をしている。オバマのような色合いの人がほとんどだ。彼らのルーツは奴隷貿易によって売買されたアフリカ人女性と白人の間に生まれた子供たちである。それはアフリカを離れた後のことだ。
ところが今回ガーナを訪れて、ハッとさせられた。アフリカに残った黒人たちの中にも「ハーフ」がいたのである。やはり現地で取材しないと見えないものがある。
ガーナは西アフリカ最大の奴隷貿易の交易所があったところで、奴隷の総数は1000万人を超えた。コロンブスが西インド諸島に到達する約50年ほど前、まずポルトガル人が入植した。そしてオランダ人、イギリス人への引き継がれていく。「ハーフ」は次のようにしてガーナで誕生した。
海岸沿いに建つ城がある。世界遺産に登録されているエルミナ城だ。最上階には奴隷貿易を総監するオランダ人総督が住んでいた。城の1階には奴隷の女性たちが水浴びをする場所があり、総督は上からその様子を眺めながら、気に入った女性を自分の部屋に引き入れた。女性が妊娠すると、総督は売り払わずに解放した。少しばかりの情けである。その子孫たちがいまでもムラート(黒人と白人との混血)として現地にいる。
私はガーナ人にとって、肌の色というのは黒ければ黒いほど誇らしいものと思っていた。だが、逆だった。ホワイトへの憧れはかなり強いものがある。少しでも白くなりたいという意識が心中に潜んでいると現地で聴いた。
もう一つ学んだことは、ガーナ奥地から奴隷として連行さえた黒人たちは、やはり黒人の奴隷狩りによって強制的に連れてこられたことである。金品に目がくらんだ同胞が、同じ肌の人間を白人に売り渡したのだ。そうした事実について、ガーナではつい最近まで深く検証されることはなかったという。過去の暗い部分には蓋をしておきたいという意識だ。奴隷貿易についての最初のガーナ国内会議が開かれたのは21世紀に入ってからである。
奴隷の売買というと、ついアメリカ人を連想しがちだが、直接アフリカに出向いて奴隷船に黒人たちを乗せたのはヨーロッパ人であり、奴隷たちのほとんどは西インド諸島に送られた。アメリカの黒人たちは西インド諸島から二次売買されたあと、南部の綿花プランテーションなどで強制的に労働させられている。
近年、最後の到達地であるアメリカから、多くの黒人たちがガーナを訪れている。いわゆるルーツの旅だ。中にはガーナにUターンして移住する者もいるが、ガーナ人たちからは「白人」扱いされ、居場所がないという。ホワイトへのあこがれがある一方で、少しでも白人の血が混ざった彼らを「白人」扱いする矛盾が垣間見られる。
人種問題はなにもアメリカだけではない。アフリカにも歴然と残っていた。