システムとしてのゆとり

ワシントンから東京にもどって10カ月がたった。ようやく社会復帰のための「リハビリ」が終わったような気もするが、一生もとの日本人には戻れない気もしている。25年間のアメリカ滞在はやはり大きく、今後ずっと自身の中にアメリカ人と日本人が共生するような思いが強い。

それは「絶え間のない比較」ということでもある。単語や表現の比較だけでなく、町を歩く人の顔つきやファッション、溢れかえる品物や住居の様子、政治家の言動から人の考え方など、比較対象は社会全般にわたる。生活の中に「日米比較表」ができあがってしまったかのようですらある。

その中の一つに休暇がある。

日本人があまり休暇をとらないのはよく知られる。実際はアメリカよりも国民の祝日が多いし、ゴールデンウィークやお盆休み、年末年始の休みがあるので、勤めに出ない日はそれほど違わないし、有給休暇を入れるとむしろ日本の方が休みが多いかもしれない。過去10年ほどは、アメリカでも「働きすぎ」が問題になってきている。

まして最近は、日本の大企業の中には残業をさせない風潮があり、無理やり帰社せざるを得ない会社もある。企業情報の秘匿から自宅で仕事をすることもゆるされない。「仕事が終わらない」という苦情を耳にする。

だが、それで彼らに余裕ができただろうか。感覚的なものとして、日本の勤め人からゆとりを感じることはあまりない。せわしない空気が東京をおおいつくし、暗い穴に逃げ込んでものがれられないかのようである。

年末年始に国外にでる人は多いが、あまり声を大にして海外で遊んでくるとはいわない。休みに対する罪悪感でもあるかのようだ。これは自分だけが楽しい思いをして遊んでいては申し訳ないという気持ちが少しあるからだ。

アメリカでは会社員だろうが団体職員だろうが仕事に調整をつけて、11月の終わりや1月下旬に2週間、つまり時期にまったく関係なく有給休暇を普通にとる。皆が休む時期にわざわざ一緒に休む必要はないからだ。周りも当然だと思っているから支障はない。

日本の組織でも、上の者が率先して休みをとればいいが、なかなかそうはいなかいのが実情だろう。文化の違いと一言で片づけてもいいが、「これでいいんですか」といって歩きたいくらいだ。「ここは日本なんだから、これでいいんだよ」と言われたら私は引っ込むしかないが、普通の時期に普通の有給がとれる体制がとれればと思う。

私はフリーの立場なので休みは勝手にとらせて頂いているが、日本の社会全体がもっと余裕とゆとりのある空気に満たされることを年末に願う。それは決してカネだけの問題ではない。システムとしてのゆとりなのだろうと思っている。