新しい政治システムの時代へ

時代が進むにつれて、旧態依然とした日本の国会やアメリカの連邦議会がうまく機能していないと多くの人が感じるようになってきた。与野党議員による政治的駆け引きや国民不在の法案審議など、理由はいくらでもある。

8日、アメリカの民間調査会社パブリック・ポリシー・ポーリング(PPP)が発表した調査では、連邦議会の信任度はすでに谷底に落ちている。支持すると答え人は回答者の9%に過ぎず、ゴキブリやシラミよりも不人気だった。比較対象がユニークである。

アメリカでは残虐の限りを尽くした男として知られるチンギスハーンよりも、また不愉快な大腸の内視鏡検査よりも人気が下だった。

ギャラップ調査でも連邦議会は14%で、歴史上最低率を記録している。大統領の支持率53%が対照的である。

言い過ぎかもしれないが、民主主義の限界とひずみが21世紀になってより鮮明になってきたということかもしれない。それと連携して、資本主義が瓦解し始めているとも思えなくもない。

時代は絶え間なく変化するが、すでに築き上げられたシステムは頑迷なまま変化を嫌う。時代が変わりゆくスピードについていっていない。あまりにも当たり前のことなのだ。

つねにシステムの変化は後からやってくる。特に政治・経済の新システムの登場は遅れる。

東北の復興が遅れるのも、財政赤字の削減が遅々として進まないのも関連性がある。

多くの人の意見を聞くという民主主義の原則は大切だが、ものごとを前に進めるという点で時間がかかりすぎるきらいがある。

柔軟にしてスピードのある新しい政治システムを構築したいが、確立した時にはまた矛盾をはらむ。

なぜ日本は後手に回るのか

これは日本だけに限ったことではない。アメリカ以外のすべての国と述べた方がいいだろう。

日本を含めた世界中の人からアメリカほど嫌悪感をもたれる国はないが、同時に潜在的羨望を抱かれる国もない。IT業界だけでなく医療から音楽にいたるまで、じつに多くの分野でアメリカは主導的立場を維持している。これは紛れもない事実である。

日本でも近年、30歳前後の起業家がITを使った新ビジネスや生き方を提唱してメディアから注目されているが、アメリカを越えていない。申し訳ないが「その程度ですか」といったところだ。

なにしろ彼らはヨーロッパや中南米の国々に影響をおよぼしていない。もちろんアメリカの特定市場を席巻するような新進企業にも個人にも成長していない。

これは書くことを生業とする私も同様なので、他人を責めてばかりはいられない。英語で書かれた本が何万部も売れているわけではない。以前、英語でエッセイや評論を書いていたこともあるが、英語市場では敗者といっていい。

言うまでもないが、タブレットもアメリカに先を越されている。2003年にソニーや松下電器(現パナソニック)がタブレット市場に本格参入していたことはよく知られるが、その先見性はアメリカを始めとする世界のユーザーをつかみきれず、08年に撤退した。

アップルやアマゾンはその後を受け継ぐようにして成功を収めた。日本は結局、後手に回ったのである。

なにが違うのか。企業のマーケティング戦略よりは、一言でいえば個人がもつ世界観の違いだろう。地球を懐におさめてビジネスをするかどうか、生きているかどうかの違いであろうと思う。

一部企業は日本よりも世界市場に力点を置いているが、地球を意識している人はどれだけいるだろうか。

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誰にもわからないこと

昨年10月以降、円ドル相場は円高で加速しつづけている。

私はFXトレードはしないので個人的には影響ないが、どこまで円高が進むのか。

1月第1週の円レートは、1ドル88円をつけた。円高の流れは強いが、トレーダーの中には昨年の総選挙前後で反転すると予測した人もいた。大損している。

ワシントンにいた時、ウォーストストリートのエコノミストやトレーダーたちの出す中・長期的な相場予測をみてきたが、半年後を予測できた人は3割に過ぎない。

ウォールストリート・ジャーナルは50人ほどのエコノミストに半年後の相場を予測させる企画を続けていたが、本当に7割は外れた。1度や2度ではない。

為替相場はほとんど読めないと考えた方がいい。というのも、相場は未来の社会現象や政府の金融政策、財政政策、ヘッジファンドの投機などさまざまな動きで万華鏡のように変化するからだ。むしろ、ある日の終値を読むことの方が容易だ。

経験豊かなトレーダーは経験則で相場を読もうとするが、過去の事例が生かせるとは限らない。むしろ邪魔になる場合もある。

1995年4月中旬のことだ。1ドルが79円をつけた。だが円相場は同年夏まで、一気に円売りドル買いで進み、8月初旬にはいまと同じ88円をつける。

当時、アメリカ政府が為替政策をドル安からドル高に転換したと読んだ投機筋はドル買いを続けた。ジョージ・ソロスがその先導役だったとも言われる。そして8月中旬には99円まで進んだ。

そうした動きを覚えているトレーダーは、今年を95年にダブらせる。今春、1ドルは100円を超えると読む人もいる。

年末、日本外国特派員協会で会ったカナダの金融関係者は、「首相の安倍のインフレターゲットが失敗し、財政赤字が増え続け、本当の金融破綻に直面すれば円は最悪1ドル150円を超える」とまで豪語した。

円相場は一直線の傾向が強いので、そうなるかもしれない。だが、安倍政権では実態経済に何も変化が生まれないことが判明した時、相場は一気に反転して円高に動かないともかぎらない。

だが、誰も読めない。これが真理である。(敬称略)

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日常生活からアウトする

あけましておめでとうございます。今年もさまざまなテーマでものを書いていこうと思っています。

最近、偶然にも何人かの若者に「どう生きたらいいのか」といった人生論の質問を投げかけられた。

私は50代の半ばだが、正直に述べると年齢を重ねたからといってこの問いに答えがでているわけではない。ウンウンしながら寝返りをうち、寝られない夜があるわけでもないが、真摯な態度でこの設問に向き合うことはもうない。それは自身にとっても答えが出せないことを悟ったからである。

ただ冷静に考えると、年月を経るにしたがい、哲学的な問いに立ち向かわなくなったといった方が当たっている。結婚して家族ができると現実的な生活が自身に降りかかり、「どう生きたらいいのか」といった真っ当な質問を遠ざけるようになる。

それは貨幣経済の中でどうやって金銭を得ていくか、いわば「どう生活するか」という方にウェイトが乗ってしまい、「どう生きるか」ということが置き忘られるからである。

「どう生きたらいいのか」を訊いてきた若者は、人生の進路がはっきり見えないという。「どう生きるか」と「どう生活するか」の両方が見えていないようだった。

会社員や公務員になるというチョイスはもう最終的な安住の地ではないのではないかという。その通りである。

それだからといって、すぐに他のオプションに移れるだけの経験も資金もない。やりたいことが決まらないから何をするにしても本気になれない。長続きしない。

アメリカでインタビューした経営者の中に、「いやだと思った時はどんどん辞めたらいい」という人がいた。

「永遠に辞め続けることはないよ。どこかで『自分の地』をみつけられる」

その人は職業を20くらい替えて、最後は自分でビジネスを起ち上げて大成功していた。辞めることを恐れるなということである。

それは極めてアメリカ的な人生訓だった。無理に我慢することを美徳と捉えない。日本よりも柔軟な雇用市場によって支えられた考え方である。

それでも求めるものがある限り、合わないことに自分を合わせる必要はない。もちろん多少の忍耐は必要である。だが、変化がより好まれる時代になった。

まず現状から出る。「日常生活からアウトする」のである。辞めることもそう捉え直せる。

その中から見えるものが必ずあるはずである。