誰にもわからないこと

昨年10月以降、円ドル相場は円高で加速しつづけている。

私はFXトレードはしないので個人的には影響ないが、どこまで円高が進むのか。

1月第1週の円レートは、1ドル88円をつけた。円高の流れは強いが、トレーダーの中には昨年の総選挙前後で反転すると予測した人もいた。大損している。

ワシントンにいた時、ウォーストストリートのエコノミストやトレーダーたちの出す中・長期的な相場予測をみてきたが、半年後を予測できた人は3割に過ぎない。

ウォールストリート・ジャーナルは50人ほどのエコノミストに半年後の相場を予測させる企画を続けていたが、本当に7割は外れた。1度や2度ではない。

為替相場はほとんど読めないと考えた方がいい。というのも、相場は未来の社会現象や政府の金融政策、財政政策、ヘッジファンドの投機などさまざまな動きで万華鏡のように変化するからだ。むしろ、ある日の終値を読むことの方が容易だ。

経験豊かなトレーダーは経験則で相場を読もうとするが、過去の事例が生かせるとは限らない。むしろ邪魔になる場合もある。

1995年4月中旬のことだ。1ドルが79円をつけた。だが円相場は同年夏まで、一気に円売りドル買いで進み、8月初旬にはいまと同じ88円をつける。

当時、アメリカ政府が為替政策をドル安からドル高に転換したと読んだ投機筋はドル買いを続けた。ジョージ・ソロスがその先導役だったとも言われる。そして8月中旬には99円まで進んだ。

そうした動きを覚えているトレーダーは、今年を95年にダブらせる。今春、1ドルは100円を超えると読む人もいる。

年末、日本外国特派員協会で会ったカナダの金融関係者は、「首相の安倍のインフレターゲットが失敗し、財政赤字が増え続け、本当の金融破綻に直面すれば円は最悪1ドル150円を超える」とまで豪語した。

円相場は一直線の傾向が強いので、そうなるかもしれない。だが、安倍政権では実態経済に何も変化が生まれないことが判明した時、相場は一気に反転して円高に動かないともかぎらない。

だが、誰も読めない。これが真理である。(敬称略)

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日常生活からアウトする

あけましておめでとうございます。今年もさまざまなテーマでものを書いていこうと思っています。

最近、偶然にも何人かの若者に「どう生きたらいいのか」といった人生論の質問を投げかけられた。

私は50代の半ばだが、正直に述べると年齢を重ねたからといってこの問いに答えがでているわけではない。ウンウンしながら寝返りをうち、寝られない夜があるわけでもないが、真摯な態度でこの設問に向き合うことはもうない。それは自身にとっても答えが出せないことを悟ったからである。

ただ冷静に考えると、年月を経るにしたがい、哲学的な問いに立ち向かわなくなったといった方が当たっている。結婚して家族ができると現実的な生活が自身に降りかかり、「どう生きたらいいのか」といった真っ当な質問を遠ざけるようになる。

それは貨幣経済の中でどうやって金銭を得ていくか、いわば「どう生活するか」という方にウェイトが乗ってしまい、「どう生きるか」ということが置き忘られるからである。

「どう生きたらいいのか」を訊いてきた若者は、人生の進路がはっきり見えないという。「どう生きるか」と「どう生活するか」の両方が見えていないようだった。

会社員や公務員になるというチョイスはもう最終的な安住の地ではないのではないかという。その通りである。

それだからといって、すぐに他のオプションに移れるだけの経験も資金もない。やりたいことが決まらないから何をするにしても本気になれない。長続きしない。

アメリカでインタビューした経営者の中に、「いやだと思った時はどんどん辞めたらいい」という人がいた。

「永遠に辞め続けることはないよ。どこかで『自分の地』をみつけられる」

その人は職業を20くらい替えて、最後は自分でビジネスを起ち上げて大成功していた。辞めることを恐れるなということである。

それは極めてアメリカ的な人生訓だった。無理に我慢することを美徳と捉えない。日本よりも柔軟な雇用市場によって支えられた考え方である。

それでも求めるものがある限り、合わないことに自分を合わせる必要はない。もちろん多少の忍耐は必要である。だが、変化がより好まれる時代になった。

まず現状から出る。「日常生活からアウトする」のである。辞めることもそう捉え直せる。

その中から見えるものが必ずあるはずである。

銃規制:最後に必要なもの

アメリカ、コネチカット州で14日起きた銃乱射事件は、またしてもアメリカの狂気の一面を世界中に晒すことになった。今年7月にもコロラド州で12人が亡くなった事件が起きている。

考えさせられるのは、なぜアメリカにこうした事件が多発するかということだ。しかも、いまだに先進国のリーダーという進歩的な立場にあると思われる国で、世界最悪と呼べるような犯罪が繰り返されている。

原因は多角的に精査しなければならず、主要メディアやネット上で散見される「銃規制が不十分」や「バイオレント・ゲームの人気」といったことは十分な説明になっていない。

実はアメリカ国内の銃を使用した凶悪犯罪件数は04年以後、減少している。

日本の刀狩りのように、国内にある約3億丁の銃を没収する案もこれまで何度となく浮上したが、部分的に実施されただけで成功していない。武器の保持を謳った憲法修正第2条があることもある。

世界的にバイオレント系のTV・コンピューターゲームがさかんだが、それが直接、銃犯罪の増加につながるかというと、その因果関係は微妙である。

1日10時間以上も熱中するゲーマーであっても、「むしろスッキリして犯罪など考えつかない」という人が大多数だ。やはり犯罪者の生い立ちや性格、生活状況、その時の精神状態が「行動のベクトル」を負に動かしていると解釈するしかない。

針が振り切れてしまう一瞬に、銃が手元にある。弾丸が装填されている。邪悪な精神的高揚が治まるまえに引き金を引く対象が眼の前にある。

これまで殺人事件を何度も取材しているが、人間が持ついくつかのベクトルが負の方向に重なったときに殺人事件が起こると思える。何かが陽の方向に動くと事件にいたらない場合がある。

国家による銃規制は残念ながら完全には機能しないだろう。残るは倫理感を高める教育と個の意志の強さを磨くことである。

最後は個の力に委ねられている。