「おひとりさま」のためにある

久しぶりに、本当に久しぶりに吉野屋のカウンターに座った。

JR有楽町駅のガード下に大きな店舗がある。すき焼きを食べたいと思ったので入ることにした。牛丼ではなくすき焼きである。

というのも、30年以上前、牛丼の肉をつまんで溶いた生卵につけて食べるとすき焼きの味がすることを発見した。当時、個人的には大きな発見だと思ったが、周囲の人に話をするとほとんどが知っていた。

あの味をまた経験しようと思ったのだ。

カウンターに座ると、店員がすぐに注文を取りにくる。牛丼と卵を注文すればいいのだが、他に何かオーダーすべきかを迷い、メニューをもらう。

並、大盛、特盛と書かれている。特盛でも540円だ。「アタマの大盛」というのもある。迷っている間にも、どんどんお客さんが着席し、メニューを見ずに私よりも先に注文していく。

「並にタマゴ」。それだけしか言わない。

「大盛のだくだくに味噌汁」。ほとんどが常連さんのようである。決められずに焦る。

いや、すでに牛丼と卵を注文すると決めていたので焦る必要はなかったが、メニューの品を眺めていると時間がかかる。

その中に「牛すき鍋膳」というメニューをみつける。まさしく、すき焼きそのものだった。

「それでは牛すき鍋膳の大盛をお願いします」

場違いなほど丁寧にオーダーしてしまった。「牛すきの大盛」と言えばよかったのだろうが、もう遅い。

待っている間にも来店する客があとをたたない。有楽町店はすごい人気である。しかも午後4時半という中途半端な時間である。

その日、ランチを食べていなかったので、遅いお昼兼晩御飯の前菜といった気持ちで食べることにしていた。お客さんの多くもランチを食べ逃したのか。それともおやつとしての牛丼なのだろうか。

牛すきは出てくるまでに少し時間がかかった。その間、「並」とだけ口にした人のもとに丼が運ばれていく。驚くほど速い。

壁にかけられた時計で、次に「並」を注文した人のもとに何秒で届くか計ってみた。27秒。アメリカではコーヒー1杯さえもっと時間がかかる。この迅速さは世界中のどの国も真似ができないだろう(たぶん)。

牛すきが目の前に置かれた直後、左横の席に20代前半と思われる女性が座った。トレンチコートの前を開いて座っている。メニューは見ない。

「大盛のつゆだくにけんちん汁」

周囲の人は誰も驚かない。店員も当たり前のようにオーダーをとった。私だけが「そうか、大盛いくのか、、、」と感心する。

あらためて周りを見回した。ほぼ全員が「おひとりさま」である。たまたまその時間、同僚や友人と来ていなかっただけかもしれない。だが昔から吉野屋は1人で入る店だったことを思い出した。

さらに最近は隣の女性のように「おひとりさま」の女性も増えていると聞く。その日も何人か女性がいた。

1人だからと言って、彼らは決して寂しいというわけではない。むしろ1人の時だからこそ吉野屋に入るのだ。内装に凝ったイタリアンやフレンチに1人では入りにくいが、吉野屋は「おひとりさま」のためにある。

ただ、カウンターに座っていて、なにか落ち着かないものを感じる。焦燥でも羞恥でもない微弱のためらい―。

安く、速くという要素は都会で腹を満たす上で得点は高いが、同時に慌ただしさの中で食事をしなくてはいけない自分に対するわずかばかりの嫌悪を知覚する。

だからカウンターに並ぶ客の顔に満面の笑みは見られない。それが吉野屋の悲哀である。

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タクシーの中へ(3)

私は仕事だけでなく、プライベートでもさまざまな国へ出向く(世界の街角から)。

新しい土地に行くと3つのことをするようにしている。1つはマーケット(市場)に足を運ぶこと。2つめは富裕層と低所得者層の住宅街に足を運ぶこと。3つめがタクシーに乗ってドライバーと話をすることである。それによってその国の表情がずいぶん読み取れる。

英語を話さないドライバーも多いが、新しい国に降りたった時は気が張っていることが多いで、その所作に違いを見いだしやすい。それが国民性の違いとなって興味深い比較ができる。

国によっては(ドライバーによっては)、目的地までわざと遠回りをしたり、料金をよけいに請求したり、手品のようなマジックを使って料金を奪うことさえある。

自分ではかなり旅慣れていると思っているが、何度も騙されたことがある。ニューヨークでは、滞米20年後であっても不正に料金をとられたし、トルコやギリシャでも騙された。わかっていても「あらま、やられちゃった」だった。

その点、日本のタクシーの運転手さんで客を騙す人はほとんどみられない。日本語のできない外国人観光客を乗せた時でも同じである。むしろより親切に送り届ける人の方が多いだろう。中には遠回りをして料金を稼ぐ人もいるが、例外のはずだ。

先日、運転手さんに訊いてみた。日本では客を騙すようなドライバーはいないか、と。

「酔っ払った客に料金を踏み倒されたり、値切られることの方が多いですね」

なかなかつらい稼業なのである。

信頼を回復させるために

「いま彼女をつかまえられればスクープですよ、堀田さん」

知り合いのテレビ局プロデューサーは「見つけて下さい」といわんばかりだった。

彼女というのは、STAP細胞を発表した小保方晴子のことである。大々的に記者会見をしたあと、まったくメディアのインタビューに出てきていない。画像の再利用や論文の一部のコピペ等の問題が表面化する前から、彼女はメディアの前から姿を消していた。

メディアのインタビュー依頼にすべて応える必要はないし、その義務もない。研究者にとって、研究の継続の方が大事だからだ。だが彼女はメディアから逃げるように行方をくらました。

大手メディアが自宅や職場に張り込んでもつかまらない。それは単にインタビュー拒否というより、逃亡という言葉があたっているようにさえ思えた。博士論文も含めて、盗用や使い回しが明るみにでることを恐れていたのだろうか。

ネイチャーに掲載された論文は、マウスの細胞ではあるが、弱酸性の液体で刺激を与えるだけで万能細胞に変化するという画期的な内容だった。しかし研究者として、いや一般社会であっても倫理的に問題となる行為をしたことで、論文の本質にまで大きな疑問符がついてしまった。

データを改ざんして無理に結果をだしたとしたら、研究者としての信頼を失墜させただけでなく、理化学研究所や大学の名誉、さらには日本の細胞生物学の評判さえも落とすことになる。

私が唯一願うのは、STAP細胞の研究成果だけは本物であってほしいということだ。

以前、エイズ研究者の半生を描いた単行本を出版した。その時に学んだのは、多くの科学論文には実験のすべての行程が事細かに書かれていないということだ。論文で発表された実験は世界中の研究者によって追試される。だが、論文の指示だけで実験が成功するとは限らない。

たとえば、「試験管を振る」と書かれていても、激しく振るべきなのか、2回左右に振るだけなのか、それとも赤子が寝ているゆりかごを揺するようにするかは判別できない。実験は時に、その一振りで失敗する。

本当にSTAP細胞が誕生しているのであれば、小保方はその手法を世界に出向いて公開すべきである。それでしか失墜した信頼を回復させることはできない。(敬称略)