STAP細胞のゆくえ

小保方晴子が9日、大阪で会見を開いた。会見では相変わらずSTAP細胞の実験の詳細は明かされなかったが、多くのメディアが批判的な眼をむけるなか、私は謙虚さや熱意が伝わる会見だったと思っている。

言い訳がましいことは口にせず、上司や理研の批判も封じて謝罪に終始した。

だが2時間半の中で、彼女に付着した負の部分をすべて「正」に反転できたかは疑問である。パワーポイントによる会見だと聞いていたので、実験データを示すのかと思ったが違った。

つまり、最も重要なポイントであるSTAP細胞の作製の証明が示されなかった。単に200回という数字をだしたに過ぎない。

ただ私は会見の中で口にしたいくつかのキーワードから楽観的な見方をしている。人によってはいくつかの不正行為によって「信用できない人物」とか「研究者として終わった」と述べるが、 彼女にしかできない実験を成功させていると考えている。

「今回の論文は現象論を示しており、最適条件を示したわけではない」という言葉にそれが表れている。

3月16日のブログ信頼を回復させるために で書いたとおり、論文に書かれている実験工程だけで追試をしてもうまく行くとは限らない。生化学の実験では扱う細胞によって結果が違うし、繊細なヒトフリによって他者のおこなう実験と違う結果がでる。

彼女だけが会得した実験ノウハウによってSTAP細胞の作製に成功したと私は見ている。限定的な実験環境においてだけで、誰しもができる条件下ではないというのが、「現象論を示しており、最適条件を示したわけではない」という意味だ。

さらに「コツやレシピーのようなもの」という言葉もそれを示している。これこそが発見者だけが知る秘密である。そして彼女は自信をのぞかせる。

「もし私が細胞を作るところを見たいという方がいれば、ぜひどこにでもいって、、、できるだけの協力をしていきたい」

論文は公表された時点で、すべてを明かさなくてはいけない。手品の種あかしではないが、すべてを世界中の研究者にさらす義務がある。

これまでは競争だったが、遅れていた研究者に種あかしをすることで、また皆が同じラインに立てる。そこから競争すればサイエンスはさらに先に進める。科学者はオープンでないといけない。

小保方は研究者としては未熟だが、サイエンティストとしての姿勢は十分に評価できる。もし昨日の会見で虚言をはいていたとしたら、その時は本当に終焉と言えるかもしれない。(敬称略)

もうひとつの長寿番組の終焉

タモリの「笑っていいとも」が終わったと前回のブログに書いたら(どこまでが天性なのか)、今度はアメリカの長寿番組の司会者デイビッド・レターマンが来年中に降板するという。

日本ではほとんど馴染みのない人だが、アメリカでは知らない人がいない。3大ネットワークのひとつCBSで「Late Show」という夜11時代の番組を長年つづけてきた。CBSに移る前はNBCでも同じような番組の司会を務めていたコメディアンだ。タモリと同じ1982年に番組を始めているが、「笑っていいとも」のような生番組ではない。

アメリカではその時間枠の番組構成が過去何十年も変わっていない。司会にコメディアンが起用され、番組の冒頭では毎日ジョークをいくつも繰りだす。

私は1982年に留学でアメリカに渡った時から、なるべくその時間は番組を観るようにしていた。最初はジョニー・カーソンという人を観ていたが、彼が辞めたあとはレターマンにチャンネルを合わせた。というのも、彼らの繰りだすジョークが英語の勉強に役立つと思ったからだ。 

役立つというより、どれだけ聴き取れるかが英語力のバロメーターになると考えていた。最初はまったく笑えなかった。というより、何の話題のジョークであるかさえもわからなかった。

そのうちに、「クリントンについてのジョークだな」ということはわかってきたが、最後のオチで笑えない。ジョークは構成作家やスタッフと一緒に練りこまれており、英語力だけでなく、アメリカ社会についての知識がないと笑えないことが多い。アメリカを包括的にどれだけ理解しているかを如実にしめすものでもあった。

辛いのは、周囲にアメリカ人がいるときだ。皆が笑っているのに1人だけ笑わないのは奇異にうつる。最初の頃は皆が笑ったあとに一呼吸遅れて「ヘッヘッヘ」とやっていた。実に虚しかった。

そのうちにジョークの意味がわかり、一緒に笑える時がきたが、それでもすべてのジョークで笑顔をつくれない。英語が聴きとれたとしても、話の主人公に馴染みがなかったりするからだ。

さらに笑えない時もあった。英語もオチも理解しても「ジョークとして面白いか?」という時である。日米両国には笑いのツボに微妙な違いがある。

ただレターマンとタモリに共通するところは、どんなゲストが登場してもわけ隔てなく接し、知らぬうちに視聴者を楽しませていることだ。前回も書いたが、それも天質といえるだろう。

2人が毎日つづく番組から姿を消すのはやはり寂しい。

どこまでが天性なのか

「笑っていいとも」が終わった。タモリにかなりの愛着を抱いていたので、番組が終わることに強い寂寥感を抱く。

昨晩、同番組のフィナーレとして多くのお笑い芸人やタレントが顔を揃えていた。タモリも含めて、さんまやダウンタウン、ナイティナイン、爆笑問題など現在の日本のお笑い界を代表する面々が一堂に会していた。

そこでふと思ったのは、彼らと他のお笑いタレントたちとの違いである。いわゆる芸人と呼べる人たちは何百、何千という単位でテレビに現れ、すでに去ってしまった人たちも多い。

熟考して練り上げたネタが面白いのは当たり前である。だが、彼らの強さは即興で笑いを創造できる資質にある。それを天性と呼んでいいのかはわからない。

瞬時にして視聴者に笑いを運べる言葉を切りとってくる瞬発力は天質といえるものだ。しかもテレビカメラの前でそれが発揮できなくてはいけない。

人を笑わせる言葉は、降ってくるものだと思う。それはたぶん練習や努力で獲得できるものではない。どこからか脳内にわいてくる。「瞬間芸」とさえ言える。

もちろん私にはこの能力がない。少しだけテレビにレギュラーで出ていたことがあるが、真面目なことしか言えなかった。ニュース番組なので当然かもしれないが、何も降りてこなかった。テレビには向いていないことを悟る。

けれども私の周囲に数人だけ、この天質を携えている人がいる。

「降りてきちゃうんだから、しょうがない」

絶え間のない爆笑の嵐がおきていることは言うまでもない。努力をした形跡はない。

本来ならば吉本興業か松竹芸能あたりに入るべきなのだろうが、普段は緻密さと繊細さが要求される仕事に就いている。それもまた人生である。

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