IT業界が背負った課題

アメリカの新聞業界が上向いている。

紙とデジタルを合わせた売上が10年ぶりに増加した。紙の売上は相変わらず下降気味だが、ネット上の関連商品が伸びてきており、ようやく長いトンネルを抜け出たという。

私は今でも紙の新聞を手にするが、時代はすでにスマホやタブレットで新聞やニュースを読むのが当たり前になっている。

スマホは3年前、タブレットも昨年、拙著の一冊が電子書籍化されたことを機に購入して使っている。いまさらタブレットの利便性をここで書く必要はないだろう。次のページに行くとき、指一本を画面に乗せれば次に進む便利さはありがたい。

予想していた以上に便利である。一番よかったと思ったのは、文字のフォントを選択できるだけでなく、大きさを調整できることだ。すでに老眼がはじまっている私にとっては見やすいサイズを選べる。

それはどういうことかというと、速読がどんどん進む(速読がやってきた )ということだ。大きいフォントは速読に適している。これはタブレットを使って初めてわかったことだ。

タブレットには自分の書棚も用意されているので、どんどん本を買い足してしまう習慣がいいことなのか、悪いことなのか、いまは問わないことにしている。

ただ明言すると「タブレットは飽きやすい」。無味乾燥で、硬質で、味気ない。いつもスチールの皿に盛りつけられたものを食べているような感じである。

和食であっても、上海料理やトスカーナ地方料理を食べても、皿はいつも同じといった印象である。

だから今でも本屋にいって、大きさが微妙に違う単行本や新書、文庫本も購入する。それはページをめくる物理的な喜びを味わうことでもある。もちろん今もタブレットは使用中だ。

IT業界が背負った今後の課題はそこだろう。すぐれもののハードを作ることはエンジニアたちに託された使命だが、千差万別、変幻自在に揺れ動く人間の心を満たすことはちがうタイプの人間がやらざるを得ない。

それは電車オタクにJRのエキュートを創造することがほとんど無理だったことに近い。単にコンピューターソフトをつくることでもない。タブレットに本のような質感を与えられるかどうかである。

だがそれは、現時点で私を含めた多くの利用者が抱く理想でしかない。たぶん、しばらくの間は無理である。

Go for it, Spitz!

今日は久しぶりに柔らかい話題を、「ですます体」で記します。

私はこう見えても、さまざまなジャンルの音楽を聴きます。同年代の人たちの中には「クラシックしか聴かない」とか、「ジャズだけ」という方もいます。私はどちらも聴きますが、音楽はやはり若いアーチストの曲を聴かないと同時代に生きているという感じがしないです。

ただ、そうした曲を聴くときに体内のバイブレーションが同調しないと意味がないので、音楽だけは無理ができないという気がしています。

スマホのイヤフォンに響かせる曲はさまざまですが、最近私が繰り返し聴いている曲のベスト3はピンク(米ロック歌手)の「ブロウ・ミー(ワンラストキス)」とフィリップ・フィリップスの「ホーム」。そしてジェイソン・ムラーズ。

ムラーズの曲は何でも聞きますが、個人的評価としては「21世紀のポール・サイモン」です。まだお聴きになったことのない方は「ぜひ」であります。

そして今春、「やられた」という曲が耳に飛び込んできました。日本の曲です。今春のJ-WAVEキャンペーンソングになっているスピッツの「さらさら」。最初に聴いた時から、ヒット間違いなしだと思っています。

CD発売日は5月15日ですが、ネットではもちろん視聴可能です。エッ、、、URLをつけろ!。了解しました。

http://urx.nu/3KLu (短縮してあります)

Go for it, Spitz!

ケネディ家の威光

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by the White House in 2011

アメリカの次期駐日大使に故ジョン・F・ケネディの娘、キャロライン・ケネディが任命される公算が高い。

オバマ政権がなぜケネディを大使に任命するかの真意は、オバマと政権内部の人間にしかわからないが、私は疑問符をつけざるを得ない。

アメリカ政府が同盟国をはじめとする大国に、政治家や外交官でない民間人の大使を送ることは少なくない。およそ3割が民間大使である。そこに異論はない。

これまでの大使も日本語の話せる人はほとんどいなかったし、来日前に日本を取りまく周辺事情に精通していた人も少なかった。楽観的な見方をすれば、大使に任命されてから「お勉強」をすれば、いちおうは務まるということである。弁護士だったルース大使もそうだった。

だた引っかかることが2つある。1つはなぜ彼女が選ばれたのかということ。そして大使としての重責をこなせるだけの資質を持っているかという点だ。

調べると、ケネディは昨年のオバマ再選時、35人からなる再選委員会の共同委員長の1人だった。そして個人献金の上限にちかい2250ドル(約21万円)を寄付している。

いわゆる論功行賞で、「お疲れさま」的な意味合いがある。さらに同盟国の日本には名の通った大物がふさわしいという考え方である。

別に日本に1度も行ったことがなくとも関係がない。重要な政治決断はワシントンでなされるし、日本通のスタッフが周囲を固めるので、大きな問題はないと捉えてはいないか。

前大統領のブッシュが2000年に当選をはたしたあと、テキサス州の友人で億万長者のマーサ・レイノルズをスイス大使に抜擢したのに近い。

ただ大使という職は両国にかかる橋の基幹部分を担う。時には外交の主要プレーヤーであることは疑いようのない事実である。彼女に大使としての交渉術や説得力がそなわっているのか。

多くの人に好かれ、名前が売れているだけではいけない。緊迫する北朝鮮状勢で、周辺諸国の元首と忌憚ない意見を交換できるのか。

「私には無理でした」という事態にならなければいいのだが。(敬称略)

タダほど恐ろしいものはない

インターネットの普及によって、新聞や雑誌の記事がタダで読めて当たり前の時代になっている。

利用者としてはこれほどありがたいことはない。だが、私のように原稿を書くことを生業にしている者にとって、タダで記事を提供することは自分の身を削ることにひとしい。

当ブログを除いて、原稿の提出先は大手の出版社や新聞社がほとんどなので、原稿料はしっかり頂いているが、最近はタダで書いてくれませんかという依頼もくる。

大手ヤフーがその一つである。昨年のアメリカ大統領選の最中、ヤフーの担当者から連絡が入り、記事の執筆と編集をしてくれませんかという依頼があった。

私が大統領選をライフワークにしていることを知り、その分野の記事を充実させたいという内容だった。

ヤフーは、特にアメリカではすでにグーグルに大きく水をあけられ、「死に行く巨人」であると以前雑誌に書いた。

最初は当然報酬があると思っていたが、タダでやってほしいという依頼で驚いた。プロとして無償で仕事をしてはいけないと思っているので断った。先方は、私の名前がヤフーサイトに出ることで宣伝になるという説明だったが、タダの原稿などとんでもないという考えを伝えた。

先月、またヤフーの違う部署の人から原稿依頼があった。定期的に書いてほしいという。

「タダなら書きません」と返事をする。

すると一応原稿料は用意されているが、ネットユーザーのヒット数で決まると言うことだった。すでに同じ状況で仕事をしている人の様子を見ると、ほとんど話にならない額なので、またお断りした。

「ネット記事はタダが当たり前」という風潮はアメリカで始まったが、この分野で生きている人間にとっては由々しきことである。アメリカでは再び課金の方向へ動いている。

特に一次情報を取って、まだ世の中のどこにも出ていない情報を書いた時などは金銭をもらわなくてはいけない。「タダでお願いします」というのは反則である。

CDデビューしている歌手に、タダで歌ってくださいというのと同じだ。それだけ質の高い記事をしたためなくてはいけないが、それは望むところである。

仲間だけが読む場などへはむしろ無償で書きたいが、プロとして書く場でタダでお願いしますは話にならない。

南半球で思うこと

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どこの国を訪れても、その土地ならではの文化が根付いている。

日本ではほとんど馴染みのないものが主役級の座を確保していたりする。オーストラリアではクリケットがそうだ。クリケットほど日本で馴染みのないスポーツも珍しい。

日本での競技人口は1500人くらいらしい。たぶんイギリスの学校に行った人たちが中心なのだろう。というのも、イギリスの学校によってはクリケットが男子の必須科目になっているからだ。日本で生まれ育った人がクリケットに関与する機会はかなり限定される。

オーストラリアではテレビで長時間の生放送がある。ルールによっても違うが、1日で終わらない試合も珍しくない。

日本人でクリケットのルールを熟知している人がどれほどいるか知らないが、私もこちらに来てにわか勉強をした。

1チームが11人という点はサッカーに似ているし、ボウラーと呼ばれる投手が140キロ以上のボールを投げ、バッターがそれを打ち返すという点では野球に似ている。

だが、ほとんど永遠に終わらないと思えるほど長々と試合が続く。バッターがアウトになると次のバッターに交代するのだが、なかなかアウトにならない。

ウィケットという3本の杭に投手のボウルが当たるか、打ったボールが捕球されるか、自らウィケットを倒してしまったり等、アウトのルールも複雑である。しかも打ったボールはクリケット球場のどの方角(360度)に飛んでも構わない。

バッターはボールを転がしたら、その間にウィケットの前に引かれた線を報復することで点が入る。しばらく観ていたらホームラン(とは言わない)も飛び出した。その時は一気に6点が加算される。

だがホームランを打っても球場は盛り上がらない。あまりにも試合時間が長いためか、観客席はガランとしているのだ。

紳士のスポーツらしく、途中でティータイムが設けられていて悠長な時間が流れる。日本で人気がない理由はこのあたりにあるのかもしれない。

クリケットと共に青春時代を過ごせば違うのだろうが、にわか観戦者では心の中にそのよさが響かなかったのが残念である。