サクラの中へ

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生まれて初めて千代田区千鳥ヶ淵の桜を見にいった。

皇居のお堀にそって約700メートル。260本の桜が花弁を風にそよがせていた。折り重なるように枝をのばした木々は花のトンネルをつくり、見物客がそこを抜けていく。

木の下での宴会がまったく見られないところがいい。

薄ピンクの花冠をよく見ると、どこか寂寥感を漂わせている。短い命を象徴しているかのようである。お堀に垂れさがるようにして咲くここの桜は、「咲き誇る」というより「咲きこぼれる」という表現がふさわしい。

木々の本数ではここを勝る名所がいくつもあるだろうが、賑やかにして寂寞(せきばく)な桜はそう多くはない。

じつに日本らしい桜である。

バンクーバーの陰

連日、バンクーバーからオリンピックの話題が届けられているが、テレビや新聞を眺める限り、日本人選手の参加している競技にしか光があたっていない。

NHKのBSを観ればカナダとアメリカのアイスホッケーの試合も観戦できるが、「かなり好き」というレベルでないと、そこまで手が回らない。オリンピックというのは自国の選手を応援する国別対抗戦だから無理もない。

だが、主要メディアによって選ばれた映像だけでなく、情報も伝わらないので、「一部だけしか見せないよ」と言われている気がする。それによって、陰の部分が見えなくなっている。

たとえば、カーリングはチーム青森が奮闘していることから、女子の競技だと思っている人がいるが、もちろん男子もある。日本の男子チームが出ていないだけである。

逆にアイスホッケーは男子だけだと思われているが、女子アイスホッケーも1988年からオリンピック種目になっている。テレビも新聞もほとんど報じないので、知らないだけである。

その中で、いまだに男子だけの競技がある。スキーのジャンプである。男子だけでもいいと思われるかもしれないが、実は女子のジャンパーも大勢いる。

しかも女子ジャンプをオリンピック競技に入れるための訴訟まで起きている。私は当然、女子ジャンプもあっていいと思う。危険という理由はまったく当たらない。男子でも危険であり、女子でもすでに飛んでいる選手がいるので否定する理由がない。

バンクーバーから競技種目に入れる動きがあったが、国際五輪委員会(IOC)は拒否しつづけてきた。けれども2014年のソチから加わる可能性がある。

すでに欧米にはメダルを狙う女子ジャンパーがいるので、日本のキッズも今から鍛練してどんどん空を舞うといい。

       

もう一人の上村愛子

上村愛子にはなんとしてもメダルを獲ってほしかった。

しかし、現実は厳しい。4年前のトリノで悔しい思いをし、その後、メダルをめざして筋力トレーニングを積み、過酷な練習をこなしてきたがメダルには届かなかった。

実は上村と同じような思いを抱いていた選手が他にもいた。4年前、上村と同じようにトリノで惨敗し、試合後に大泣きしたハナ・カーニー(アメリカ)である。

              

トリノでは勝つつもりだった。しかしメダルも獲れず、数カ月は敗戦のショックからふさいだ。ようやく練習を再開した頃、今度はヒザを負傷し、ほぼ1年間は満足に滑ってもいない。トリノのショックは予想以上に大きく、トラウマは数年におよんでいた。

けれども上村同様、アスリートは練習をすることで自信という階段を一歩一歩登っていくしかない。カーニーはコーチのメニューを着実にこなしていく。昨夏、プールに着水するジャンプを1000回ほどこなした。スキー場でのジャンプは計1万4000回を超えたという。上村も同じように練習したはずだ。 

カーニーは昨シーズン、ワールドカップで総合優勝をはたすが、今シーズンはスランプに陥っていた。1月のユタ州での大会では勝てずに、やはり大泣き。

しかし14日(日本時間)の本番で、カーニーはディフェンディング・チャンピョンのジェニファー・ハイル(カナダ)を破って金メダルを獲る。

何がカーニーと上村を分けたのかは、私にはわからない。実際に二人を取材していない。取材したとしても、その差は目に見えるものではないだろう。

15日朝、民放の解説者は「カーニーは本能で滑ったような気がします」と言ったが、何万回もの練習のあとの滑りであり、本能で勝てる競技でないことがわからないのだろうか。

二人には同じ努力賞を授けたいが、いまの上村はそんなものを喜ばないだろう。

極限の美

「絵かきでは誰が好きですか」

この質問を受けたとき、私は20年ほど前から「ルノワール」と答えている。

「あまりに普通」と思われるかもしれないが、彼の油絵が一番「胸にくる」のでしょうがない。六本木の国立新美術館で開催されているルノワール展に足を運んだ。

ンー、やはり「いいな」という思いが強まった。

ルノワールの絵を好きになったきっかけは「喫茶店」、、ではない。ある絵との出会いだった。

ワシントンにスミソニアン博物館群があり、その中に近代美術をあつかった「ナショナル・ギャラリー・オブ・アート」という美術館がある。そこに「踊り子(Danseuse)」という絵がある。

立ち止まって、しばらく動かなかった。いや動けなかった。胸ぐらをつかまれて、その場に押しつけられる思いだった。美術品のよさは感性への直接的な刺激である。その絵のどこがいいのかという理由は、あとづけの説明でしかない。

人に説明する時に、「いやあ、よかった」だけでは言葉が足りないし、自分自身がなぜ動けなかったのかを自身に納得させるためにも言葉が必要になる。けれども、一幅の絵画がもつ力は、時に1万語の説明よりもインパクトが大きい。どんな説明も弱々しく思える時がある。

だからナマの絵に勝るものはない。画集や図録から動けなるほどの感銘を受けることは少ない。ひとつには大きさが伝わらないからだ。

「踊り子」は大きな絵だった。縦142センチ、横93センチというサイズである。逆にルーブルの「モナリザ」は想像よりもはるかに小さな絵だった。

そしてナマの油絵だからこそ感じる肉質と色の濃淡によって、自身の内部に自分だけの絵が刻まれる。ワシントンに住んでいる間、あの絵を観るためだけに50回以上は行った。

残念ながら、六本木の展覧会に「踊り子」は来ていなかったが、あとづけの説明を少しすると次のようになる。

一言で述べると「プラトン的イデア」なのである。モデルである「踊り子」の美はキャンバス上にはない。日常を超越し、モデルから醸された女性の真の美しさが抽出され、観念的な領域にたもたれた極限の美が描かれている。

一人の女性から普遍的な美を抜きとるルノワールの力は、他の画家にはなかなか真似ができない。私はボナールもマティスも好きだが、ルノワールが先頭にくる。

けれども「踊り子」は、1874年の第1回印象派展で「デッサンがでたらめ」と酷評される。けれども私にとってはこれ以上の絵画はないのである。

         

にきり醤油の魔力

知り合いの編集者は1年の3分の2ほどを旅している。

国内外で実に多くの場所を訪れている。以前、彼と取材旅行中、「日本各地を回りながら、最高の醤油を探し求めていたんですが、ついに見つかりました」とうれしそうな顔でいう。訊くと、瀬戸内海の小豆島の醤油だという。

「堀田さん、すごいですよ。冷や奴をたべますよね。醤油がメインなんです。豆腐はワキで醤油がメインになるんです」

実は、妻が小豆島出身なので自宅では「島」の醤油を使っている。小豆島の醤油といっても醸造所はたくさんあり、「タケサン」「マルキン」「ヤマロク」「ヤマヒサ」など、どれも味わい深い。

それで満足していたが、最近、やはりうまい「にきり醤油」には負けるかなあという思いが強い。

「にきり」はご存じのように江戸前鮨ではかかせない醤油である。醤油を酒やみりんと合わせて火にかけ、文字どおり「煮切って」つくるが、鮨屋によって醤油、酒、みりんの比率が違う。かつお節を入れる店もある。

しかも、ウマイ鮨屋は1軒で何種類もの「にきり」を使いわける。旬のヤリイカに合わせるものと、白身のネタ、さらに赤身(マグロ)のヅケでは濃度が違う。和食の極致をみるおもいである。

さらに先日、銀座のある鮨屋で、にぎる前に一つ一つのネタを「にきり」にくぐらせ、すぐに「にきり」を紙に吸いとらせる技法をみた。すぐに質問した。

「ネタの水分をとるんです。さらにシャリとの相性もよくなります」

鮨はネタをごはんの上に乗せて食べるだけの、世界でもかなりシンプルな料理だが、奥は底が見えないほど深い。