体制の中に入った猪瀬直樹

猪瀬直樹という人物は、少なくとも『ミカドの肖像』や『日本国の研究』を書いていた時代、着実に取材をし、内容のあるものをしたためるノンフィクション作家だったかと思う。

だが政治家を目指した昨年、5000万円を受領(借用)するような脇の甘さをみせた。これでは30年前の経世会の金権政治と何も変わらない。

選挙前に個人的な理由で5000万円もの大金を無利息・無担保で借り受けるという行為そのものに、すでに金銭感覚が麻痺したと言ってさしつかえない。

これまで道路公団や東電を糾弾してきたが、その勇姿はもう過去のものである。いや、一瞬にして過去の栄光は消え去ったといっていい。

出版業界では猪瀬についてさまざまな話が流布している。この問題が起こる前、編集者やジャーナリストが集う席で、いい話も悪い話も耳にした。どんな人物でも一長一短あるが、体制に楯突くことで自身の存在意義を探ってきたはずである猪瀬が、利権の渦の中に埋もれてしまった。

潔さはどこへ言ったのか。それとも最初からそんなものはなかったのか。

政治家でもカネにクリーンな政治家はたくさんいる。個人的に勉強会をしている民主党衆議院議員の長妻昭はいっさいこうしたカネは受け取らない。企業献金もゼロである。酒席でも割り勘である。それほど気をつかっている。

それが当たり前と思えなくなった時点で、世間一般とのズレが生じて「終わり」なのかもしれない。(敬称略)

外国特派員協会という団体

このブログを読んで頂いている方は、日本外国特派員協会という名前が当欄によく登場することにお気づきかと思う。

外国からきている特派員が中心となったクラブで、よく外国人記者クラブという言い方をされたりもする。正会員は約200名。日本のメディア関係者や財界の人たちも準メンバーとして会員になれる。総会員数は約1900名だ。

私は正会員なので、協会によく出入りしている。事務方の職員も大勢いるが、協会の方向性を決めるのは特派員が運営する理事会の仕事だ。その中にたくさんの委員会がある。

私は図書委員を務めている。もちろん無報酬である。むしろ月々の会費を払って仕事もしているという立場だ。社会貢献と呼べるほど大げさではないが、社会で起きていることをメディアを通じて伝える仕事として少しでも役に立つのであればと思ってやっている。

委員同士の連絡や会議、そしてイベントの司会など、いくつかやるべき実務があり、なかなか刺激的である。ただ近年、特派員の資質が問われてもいる。

20年以上も正会員のヨーロッパ出身の特派員がいう。

「優秀な記者はみんな中国にいってしまった。東京に残っているのは経験の少ない記者か、イマイチの連中ばかり」

欧米メディアの本社は過去10年ほど、日本よりも中国の方が重要というスタンスなのである。私も6年前にワシントンから東京にもどり、ここに残っている人間なので「イマイチ」と言われないような仕事をするしかない。

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            今月7日のイベントにてMC

19世紀後半の陰と陽

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仕事場から歩いて5分のところに三菱一号館美術館がある。

いま『近代への眼差し:印象派と世紀末美術』という展覧会をやっている。この世紀末というのはフランスの19世紀後半という意味だ。

私は美術に造詣が深いわけではないが、芸術作品に直接ふれると人間の生への営みを感じられるので、時間が許すかぎりさまざまなところへ行くようにしている。必ず学ぶものもある。

たとえば、今回の展覧会ではルノアールやモネといった印象派の代表的な画家からフェリックス・ヴァロットンやオディロン・ルドンなどのナビ派の画家まで、39人の作品と相対することができる。

多彩な色と光を駆使した印象派とは対照的に、ヴァロットンやルドンの作品には人生の暗部をモノクロで表現した悲哀があり、同じ時期のフランスに、ここまで真逆の心模様を表現しようとした画家たちがいたのかと思い知らされるのである。

ルノアールの肉感的な裸婦画を観たあとにルドンの石版画を眺めると、陽光の差すセーヌ川の水遊びのあとに、陰鬱な自室にもどって現実の生活に対面するような落差を感じざるをえない。

いつの時代にも陰と陽があるように、印象派の絵画で溢れかえっていると思っていたフランスの19世紀後半にも、物憂げな思索を表現したアーティストがいたのである。

ヴァロットンの木版画は秀逸である。日本のアニメの源泉に触れるような気がした。

雨の日は博物館

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台風27号が本州の南海上を通過していた26日午前。東京は小雨こそ降っていたが、風はほとんどなかった。

こういう日は博物館や美術館に足をむけるといい。とにかく空いている。

上野にある東京国立博物館。現在、「京都」という特別展をやっている。ご覧のように人影はほとんどなかった。残念ながら、展示会場では写真を撮れないが、人の頭ではなく作品をゆっくりと鑑賞できる。

今回の展示の目玉は、400年前の京都の日常を描いた屏風図である。五条大橋周辺を歩く商人や農民、酔っぱらい、芸能者、南蛮人など、卓越な描写力で当時の京都を浮かびあがらせている。

実際の屏風には2700人が小さく描かれているが、今回は4メートル×4メートルという巨大スクリーンが細部を拡大している。おとぎ話が現出されたようで愉しい。もちろん本物の展示もある。

私は勤め人ではないのでウィークデーでもふらっと立ち寄れるが、週末に行かれる方は雨の日の午後が狙い目かもしれない。

つかの間サーファー

「エッ、その歳でサーフィン?危なくない?」

妻はそう言って送りだした。

同業者で30年来の友人K氏は長年サーフィンを楽しんでいる。彼からの誘いをうけて、10月中旬、海に入ることにした。

湘南のビーチであれば、たぶんやっていなかったが、伊豆半島の下田市にある多々戸海岸という知る人ぞ知る絶好のサーフィンスポットに行くという。しかも泊まりがけで、宿には温泉もついている。

ビーチは緩やかな弧を描いていた。毎朝散歩したくなるほどの綺麗な砂浜だ。水も透明度が高い。

ただ真夏ではない。サーフィンそのものより、水が冷たくないか心配していた。だが彼が貸してくれたウェットツーツを着用して入ると1時間ずっと水の中に浸かっていても寒さは感じなかった。むしろ水から上がった時の方が寒い。

実は、サーフィンは初めてではない。10年ほど前にハワイで一度やったことがある。その時はポリネシア人のインストラクターの教えもあり、一度でボードの上に立った。

「俺が教えると2人に1人は立つ」

こう豪語した通り、私は呆気なく立って30メートルほどを走り抜けた。1度だけではなかった。

「意外に簡単じゃない」

浅はかな思い込みを抱いたまま自宅に戻った。

それから随分時間が経過した。人生2度目のサーフィンはそう甘くなかった。2日間でボードに立って海面を進んだと言えるのは1度だけ。まあ、なんとかボードの上に立ちましたというのが数度。

1人でボードに腰掛け、海面で波を待っている間にもバランスを崩して海中に落ちる。パドリングでは右に重心が流れるクセがあり、それでまたポチャン。

周囲にはサーフィン歴10年以上と思われるような老若男女が何人もいる。スッと波をつかみ、立ち上がってビーチの方へ離れていく。沖からの眺めは斬新だった。

私は肋骨の下(ボードが当たる)を痛め、両膝にあざを作り、鼻水を垂らして早々に陸に上がった。何ごとも奥が深いことを思い知るのである。

それにしてもあのハワイの楽なサーフィンはなんだったのだろうか。