たまに鳴らす「ジャーン!」

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ぜいたくと言うほどでもないが、ときどき自宅近くにある公共施設の音楽室を1人で借り切る。

そこにピアノが置かれているので、とにかく弾きまくる。普段は楽譜をもっていかない。自分の思うままに指を動かして、過去に覚えた曲はもちろん、即興で鍵盤をたたく。

実は小学校2年から6年まで、ピアノのお稽古に行かされていた。嫌でイヤでしょうがなかった。中学に入ってから投げ出した。母親は残念がったが、私はほっとした。

けれども30数年前に再び始めた。当時、アメリカの首都ワシントンに住んでいて、学生3人で借りた小さな1軒家のリビングに古いピアノが置かれていた。

「そういえば小さい頃、弾かされていたなあ」と思いだしながら指を動かすと、けっこう覚えている。

その後、自分でピアノを買って弾くようになった。あれから30年以上がたち、今では弾かされていた立場から自らが弾くという姿勢にかわった。

だが、いまだに昔の曲が中心というのはどうしたことか。それでも今は母親に感謝しなくてはいけないと思っている。

「まだ死なないんですけどね」

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記者会見の冒頭で、「死にそうなんです」とおどけてみせた。

大病をわずらって体重を落としたことは誰の眼にもあきらかだ。でもすぐにこう言った。

「まだ死なないんですけどね」

声には張りがある。

「世界のオザワ」と言われ続けて何年になるのだろうか。指揮者小澤征爾(78)は間違いなくまだまだ現役でいるつもりだ。

1992年にはじまった「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」という音楽祭を、来年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」という名称に変える。日本外国特派員協会の会見に集まった200人超に対し、これからもトップでいつづけるという印象を与えた。

「音楽ってね、昔から一番早く人に伝わるでしょう。文学は読んで理解しないといけないけど、音楽は耳から直接入るから。これからも音楽を大事にしなくてはいけない」

髪をかき上げながらはにかむ姿は、いまだに少年のようでもあった。(敬称略)

東京ドームの座席から

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友人のK氏から巨人―広島戦のチケットを譲り受け、8月1日の東京ドームの試合を観た。

ドーム内に入ってまず気づいたのは冷房の強さだ。自分の席についても半袖からでているヒジをさすったくらいである。ただ試合が進み、お客さんが増えてくるにしたがって温度が上がっていった。

照明はプレーヤーが試合しやすいような明るさに調整されていると同時に、観客もまったく問題なく球場の細部にまで眼がとどく配慮がされている。

試合は巨人・菅野対広島・前田の投げ合いで、12回延長でも決着がつかずに2対2の引き分けで終わった。

気になったのは、ビールのタンク(約15キロ)を背負って階段を上へ下へと移動する売り子のギャルたちである。視界には常に2,3人が入るほど多く、ついつい眼がいってしまう。一緒に行った友人は「可愛い子がおおい」とまずコメント。

少し観察していると、プレミアムモルツ、一番搾り、エビス、スーパードライのタンクを背負っている女子たちの可愛らしさが秀でている気がした。邪推かもしれないが、彼女たちをトップにして、ハイボールや梅酒、さらにアイスクリームや170円のジュースを売る女子たちへ続く可愛さのヒエラルキーができている。

私でもそう思うのだから、こうしたことにもっと敏感な本人たちは必ずや気づいているはずである。それを現実と受け止めているのか、ジュースを売る子が「いつかはわたしだって」と思っているかはわからない。

試合内容と同じくらい彼女たちに気がいってしまうところがおじさんの性(さが)か。

気づかいの外がわ

いまだに慣れない、、、。

何のことかというと、公共での人の気づかいについてだ。この説明でもまだ分かりにくいので具体例を挙げたい。

妻と山手線に乗った時、空いた席が2つあった。だが空いた2席というのは男性が座った両隣。3席のまん中に座っている男性が右か左に動いてくれれば、妻と並んで座れる。よくある状況だ。

こうした時、日本ではこの男性の気づかいに期待する。なかには「すみません、ひとつずれていただけますか」という人もいるが、かなり稀である。「何も言わなくとも察する」文化が共有されている。

気づかないときは、そのまま男性を挟むようにして座る。この場合、この男性は気配りができていないと思われることがある。スマホの画面を見ていたり、本を読むことに集中していると周囲が見えないことがあるが、「ちょっとずれてくださいますか」と促す人は少ない。都内と地方でもまた違いがありそうだ。

私がアメリカから戻ってきた7年前、平気で見知らぬ人を促していた。だが、その行為が日本では少しばかり違和感をもたれることを学んだ。

アメリカでは逆に、気づかいによって自ら横にずれる人はほとんどいない。いないことはないがまずいない。それよりも、「ひとつずれてくださいますか」と言わない人がまずいないのだ。

それによって気分を害する人はいない。慣れもあるが、知らない人に要求することに抵抗がない。それをこころよく受け入れる。日本では知らない人に指示されることをあまりこころよく思わない心持ちがあるのかもしれない。

察するということは、こちらがモノを言うことを省けるということで、そこに美意識をもつ日本人はすごいと感じるが、声にだして言うべきときは発言すべきだとも思う。

先日、あるカフェにパソコンを持参して原稿を書いていた。そこは道路に面した窓際のカウンターに10人が座れるようになっている。各席にコンセントがあるので、多くの人はパソコンやタブレットを使っている。

西日が射していた。ブラインドが突然上から下りてきて、パソコンの上部にあたった。横にいた男性客がブラインドを下ろすことに何の異論もない。だが、「下ろしても構いませんか」「下ろします」という発言がない。いきなりドンである。

男性客を見た。こちらに視線を合わせない。「ちょっとあなたね、、、、」とは言わなかった。

この人は友人や知人にはいつも丁寧な対応をしているのかもしれない。だが公共の場で、他人に声を発しない。

言葉を失いましたか。それとも小さな勇気がでないのですか。他人に声をかけることに恐怖心を抱くのですか。それとも恥ずかしいのですか。

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マックの記事、、、、ひるむ!

先週木曜(17日)、ネット上で最もまずいハンバーガーの烙印を押されたマックという記事を書いた。

多くの方に読んでいただき、ツイッターやフェイスブックなどでたくさんのコメントもいただいた。これまで多くの新聞・雑誌で記事を書いてきたが、読者数という点ではネット記事の方が今ははるかに多いように思う。

しかも、ネットでは拙稿を読んだ直後に「わかる!」とか「ちょっと違うんじゃないの」といった反応がくるので、興味深い。炎上しても(たぶん1回だけ)「やられたあ」と思うくらいで、ほとんど気にせずに次の記事を書けるのは、性格的なものかもしれない。

それでも正直に言うと、ネットで原稿を書くもの書きは、誰しも多少の恐怖をいただいているはずだ。会ったこともなければ名前も顔も知らない読者から、匿名で辛辣な「ご批判」を頂戴するからだ。

きちゃったきちゃった、、、という思いがあることは事実である。

私は匿名の意見には何の返答もしない。名前と身分を名乗り、直接わたしのところに言ってくる方には、これまですべてお応えしてきた。そこには怖さと同時にぞくぞくする嬉しさが共存している。

今回はマクドナルドという世界最大のハンバーガーチェーン店について、批判的な記事を書いた。米本社からも日本支社からも何も言ってきていないが、大手企業を批判するときは記事の正確さとそれなりの準備は必要だ。

ただ、さいわいにしてというか、不幸にしてというか、まだ訴えられたことはない。これは逆に言うと、たいした記事を書いていないということかもしれない。

今回のマックの記事では、ある読者の方が昼マックに行こうとしていた時に私の記事を読み、「、、、ひるむ!」というコメントをくださった。実名はわからなかったが、初めて返事を書いた。

「笑いました!ありがとう」

その方はちゃんと返事をくださった。