いずれは子どもがいなくなる?

このところ少子化のニュースが大きく取り上げられている。

昨年の出生数は8年連続で過去最少を記録し、生まれた「赤ちゃん」は75万8631人だった。私が個人的に覚えているのは、中学生の頃(1970年代初頭)の出生数で、当時は年間200万人を超えていた。

200万以上の赤ちゃんが生まれるということは、結婚する男女も多く、1972年(ピーク)の婚姻数は約109万組だった。いまは逆に赤ちゃんの数が少ないので、婚姻数もピーク時の半分以下の約48万組である。婚姻数が50万を割ったのはなんと1933年以来のことで、当時は人口が6700万強だったので、今がある意味で「普通ではない」といえるかもしれない。

このまま下がり続けると、いったいどうなるのか?公園や道路から子どもたちの声が聴こえなくなり、日本社会からエネルギッシュな脈動が消えてしまうのではないか。そんな心配があたまをもたげてくる。

若い男女は一人暮らしに満足するのではなく、たくさん恋をして、家庭をもってほしいと思うが、これはおせっかいなお願いだろうか?

やはり油断すべきではない・・

今朝の日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」は、ふたたびコロナの注意喚起をしてくれたという点で読む価値があろうかと思う。

「春秋」は朝日新聞の「天声人語」や読売新聞の「編集手帳」と同じように、毎日1面の下段に掲載されるコラムである。今日のコラムでは、執筆者が2月に入ってすぐにコロナを発症し、痛い思いをしたことが記されていた。筆者は3年前にもコロナに感染していて、その時は丸1日横になっていれば回復したが、今回は「つらい症状」が続いたというのだ。

熱は2日で下がったが、のどの痛みが続き、つばを飲み込もうとするだけでガラス片がのどに刺さったかのような激しい痛みをともなったという。筆者がネットで検索すると、コロナに感染した医師がやはりのどの痛みを訴え、「窒息するかと思った」ことが述べられていた。

苦しくて眠れないほどの症状は1回目の感染ではなかったことだ。メディアは以前のようには騒がないが、専門家によればいまは第10波の真っただ中であるという。確かに感染者数や死者数は減っているので以前のように大騒ぎはしないが、この感染症が消えたわけではない。

けっして侮ってはいけない病である。

男性更年期に向き合う

すでに社会的にも認知されてきている男性更年期。更年期障害は女性だけのものではなく、男性もテストステロン(男性ホルモン)の減少によってさまざまな症状が出る。

早い人は40代から症状に現れるが、私はオクテなのか近年になってさまざまな症状が出始めた。女性の場合は閉経前後5年ほどの期間と言われているが、男性の場合はもっと長く続くのが一般的だ。

メンタル面ではうつ症状、イライラ、集中力の低下、不安感、記憶力の低下などで、身体面では筋肉痛、腰痛、関節痛、筋力の低下、肥満、動悸などがある。それ以外にも、寝つきが悪い・眠りが浅い、疲れやすい、性欲の低下、うつ状態に陥りやすい、怒りっぽくなる、汗が止まらないといった症状がでる。

自覚できる限り、近年はほとんどの項目にマルをつけられると胸を張れるほどだが、外見は以前と変わりなく、人と会えば笑顔をつくって会話をするので、「男性更年期にやられている」とは思われない。ただ心の奥底には人に告げられない苦悩が渦巻いているのだ。

男性ホルモンのテストステロンにはやる気を高める働きがあるが、分泌量が減少すれば必然的にやる気も落ちてしまう。それが老年というものだと言われればそれまでだが、まだそうした流れに抗っていたいと思うのも事実。

「さあ、かかってこい」

鮨というもの

今年初めての鮨である。当ブログで以前にも記したが、私の最も好きな食べ物は多くの方がそうであるように、鮨である(鮨の舞台 )。しかも私の場合、鮨に関しては強いコダワリをもっているので、本当においしい店にしかいかない。

他のものはかなり「守備範囲」が広いので、コンビニのおにぎりでもファーストフードの安いハンバーガーでも何でも食べる。ただ鮨だけは妥協しないことにしている。 だから必然的に銀座の鮨屋が多くなる。私にとっての唯一の贅沢といってもいいかもしれない。それだけに、このコダワリだけはずっと持ち続けていこうとおもっている。

新年にあたって

私がジャーナリストとして独立して35年ほどが経つ。「独立」というと聞えはいいが、当時は会社員をやめてフリーランスになったというだけであった。

当時のことを振り返って、以前当ブログで次のように記している。

「(辞めるまで勤めていた米企業の)オフィス環境は悪くなかったが、創造的な仕事ではないし、マネージメントという業務に身をやつさなければならない苦痛はどうしようもない。一刻も早く辞めたい」

ジャーナリストとして活動をしたいという気持ちよりも、当時は「会社を辞めたい」という思いの方が勝っていたのである。ただ辞めた直後から精神的な開放が訪れた。まだ首都ワシントンにいた時のことである。そしてこんなことも書いている。

「この快適にして壮快な生活はいったいどうしたことだろう。あとは貧しくてもこの世に捧げられる、市民のための仕事をすべきであろうと思う」

理想を追いもとめていた時期で、少しでも世の中のためになる仕事をしようとの思いがあった。それではいまはそうした崇高な理想は失ってしまったのかといえば、そうでもない。自身の存在価値というものを突き詰めていくと、やはり読者のために新しい事実や考え方を提示することが私がやるべきことなのだろうと思うし、そこに力を注いでいかなくてはいけないと考えている。

そして今年も全力で伝えるという仕事をしていきたいと思う。皆さま、よろしくお願い申し上げます。