目障りなテロップ

最近、テレビを観ていて感じるのは、画面上に出るテロップ(スーパー)の文字量の多さと統一感のない色合いが以前よりも過激になってきているということである。すでに何年も前からこの傾向はみられるが、近年はより激しさを増している気がする。

個人的には「もっとスッキリした画面をみせてくれ」と言いたいが、そうした不満はテレビ局側には聞き入れてもらえず、テロップ過多は加速しているかにみえる。特に民放のバラエティ番組は顕著で、出演者の顔がなんとか画面中央に露出してはいるが、上下左右のスペースはテロップで覆われて、見るも無惨という番組が少なくない。

しかも一つの文章を細切れにして色を変え、「色音痴」と呼んでいいほど不統一な色彩感覚を現出させている。私が歳をとってきて、そうした番組を受け入れにくくなってきているのかとも思うが皆さまはいかがだろうか。

すでにテロップの量の多さは学究的に研究されていて、学者からも「30 年程前までは映像の補足説明に過ぎなかった文字テロップが,今や「映 像」と「音声」に並び立つ主要な表現手段の一つとなっている」との指摘もある。その背景にはテレビの「わかりやすさ志向の処方箋」という考え方があり、テレビは常にわかりやすい媒体であるべきとの思いからテロップが増えていったと説明されている。

しかし、、である。これ以上テロップが多くなった番組は「もう観たくない」というのが正直な思いである。

同性婚:法の下の平等

「日本もようやくここまで来た」というのが14日の札幌高裁での判決をきいた思いである。

同性婚を認めない民法の規定は憲法違反にあたるとして北海道に住む同性カップルが国を訴えていた控訴審で、札幌高裁は憲法24条1項(婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する)の違反であると認めた。

岸田首相は昨年、同性婚は「社会が変わってしまう課題」と述べたが、何を恐れているのかと言いたい。愛する人が異性ではなく、たまたま同性だったということだけで、社会的な制約が加わるというのは理にかなっていない。G7で同性婚を認めていないのは日本だけである。

ちなみにアメリカでは最高裁判所が2015年6月、同性婚を憲法上の権利として認める判断をくだした。アメリカではそれ以前から認められていたと思われるかもしれないが、まだ10年もたっていないのだ。というのも、アメリカでも複数の州で、連邦高等裁判所が同性婚を認めない判断をくだしていたからだ。

日本ではすでに7割ほどの人が同性婚に賛成しているといわれる。人はそれぞれ意見をもつが、同性婚はすでに「新常識」として受け入れられるべきだと考える。

スーパーチューズデー(3):トランプ好きの精神構造

トランプ氏がスーパーチューズデーで圧勝したことにより、11月の本選挙は「バイデン対トランプ」という流れができた。米国では約半数の有権者がトランプ氏を推しているかに思えるが、米独立調査機関「ピュー・リサーチセンター」の調査によると、63%の米国人はトランプ氏を「好ましくない」と答えていることがわかった。

63%もの反トランプ派がいながら、なぜ予備選ではトランプ氏に票が集まり、共和党の代表候補になろうとしているのか。そこにはなかなか表には出てこない人間の心理が作用しているかにみえる。

かつてドイツにエーリヒ・フロムという社会心理学者がいた。同氏が書いた『 自由からの逃走 』という本を読むと、人間は何故ヒトラーのような独裁者であり殺人者を支持するようになったかが解き明かされている。トランプ氏はヒトラーではないが、ある意味で横暴で独善的な行動をとりがちな政治家という点では共通項があり、いつの時代でもこうしたリーダーは一定層の市民から支持を得ることができるという。

人はおうおうにして特定の人に従属し、破壊行為に加担したり、独裁的な政治体制に身を置くことがある。組織を破壊にまで追いやるリーダーの愚行に熱狂的なまでにつき従う追随者が存在しもする。時に人は追随することの心地よさを知ると、リーダーが多少非倫理的なことをしても許容し、つき従うというのだ。

同時に、多くの人は生きている間中、従う相手を求めている。つき従うことの心地よさを覚えると、絶えず導いてくれる人を求めるものだという。そうした点では、良い悪いは別にすると、トランプ氏は強いリーダーといえるのかもしれない。 『 自由からの逃走 』 を読みながら、そんなことを考えた。

仕事への熱意

すでに旧聞に属する話かと思うが、日本の会社員で熱意にあふれる社員は全体の6%であるという統計がある。あまりにも少ない数字なので愕然とさせられると同時に、本当なのかとの疑念も沸く。ギャラップ社が昨年行った世論調査でも、熱意あふれる社員は5%という数字だったので、勤勉でよく働くと思われている日本人は意外にも仕事熱心ではないということになる。

「やる気のない社員」というカテゴリーでは70%の会社員が仕事に対して熱意をもてずにいるという。嘆かわしいという思いと同時に、どうしてここまで低率なのかを考えざるをえない。

ちなみに米国では熱意あふれる社員は32%で、日本のほぼ5倍だ。ギャラップ社によると、世界139ヵ国中、日本は132番目で、最下層の一角を成している。

通勤電車で乗客の表情をみているだけでも、「これから楽しい仕事が待っている・・・ウキウキ」と思わせる顔つきをしている人はほとんどおらず、「アーア、また嫌な上司と顔を突き合わせなくてはいけないのか」との思いを胸の奥にしまい込んでいるような人が多い。

こうした否定的な思いが流布したのは、第一に「給与が上がらない」、第二に「忙しすぎる」という理由がくる。さらに「上司から真っ当な評価を受けていない」や「仕事そのものがつまらない」といった理由がつづく。一方、米国の大企業は社員の仕事への満足度をあげるためにEH(Employee Happiness=社員幸福度)という尺度が使われ、できるだけ楽しんで仕事をしてもらうための努力が払われているようになってきている。

日本の通期電車の乗客に笑顔が生まれる日はくるのだろうか。

いずれは子どもがいなくなる?

このところ少子化のニュースが大きく取り上げられている。

昨年の出生数は8年連続で過去最少を記録し、生まれた「赤ちゃん」は75万8631人だった。私が個人的に覚えているのは、中学生の頃(1970年代初頭)の出生数で、当時は年間200万人を超えていた。

200万以上の赤ちゃんが生まれるということは、結婚する男女も多く、1972年(ピーク)の婚姻数は約109万組だった。いまは逆に赤ちゃんの数が少ないので、婚姻数もピーク時の半分以下の約48万組である。婚姻数が50万を割ったのはなんと1933年以来のことで、当時は人口が6700万強だったので、今がある意味で「普通ではない」といえるかもしれない。

このまま下がり続けると、いったいどうなるのか?公園や道路から子どもたちの声が聴こえなくなり、日本社会からエネルギッシュな脈動が消えてしまうのではないか。そんな心配があたまをもたげてくる。

若い男女は一人暮らしに満足するのではなく、たくさん恋をして、家庭をもってほしいと思うが、これはおせっかいなお願いだろうか?