人間の可能性というもの

リオ五輪を観ていて、ふと思いあたった。以前、当欄で「オリンピックと限界 」というタイトルのブログを書いた。4年前のロンドン五輪の時である。

「人間が人間である以上、各種目で記録の限界に到達する時がいずれはきてしまう」という内容を述べた。だが、限界をつくるのは人間であり、限界という枠はもしかしたら自己規定によって生み出されるのかもしれないとの思いにかられた。

「いずれは」との考え方は常識的にはしごく当たり前のことだが、記録というものに限界を設定すること自体、世界の第一線で活躍する選手たちに失礼なことかもしれない。

リオ五輪の競泳を見る限り、限界といった言葉は無縁のようでさえあるからだ。

ハンガリーのカティンカ・ホッスーは女子400メートル個人メドレーで世界新を2秒以上も縮めたし、同じく女子競泳400メートル自由形では、アメリカのケイティ・レデッキ―がやはり2秒以上も世界新を短縮している。

たとえば、10年前に400メートルを競ったことのあるスイマーであれば、この記録がほとんど想像できないものであるかと思う。

日本人選手による世界新はなかなか出ないが、人間の可能性というものは計り知れないということを改めて感じるのだ。

これは単に理想論ということではない。いつも前を向いて肯定的に生きる、といった自己啓発的な発想からでもない。

人間には「無極の可能性」というものがあるように思えてならない。