表現する自由と「いいかげんにしろよ」

今さらながらという気もするが、ツイッターやフェイスブックに載せられる写真や文章に、最近は「またかあ」とつぶやくことが多い。

SNSの利用者は十億を優に超え、何をどう書こうが、どういう写真をアップさせようが自由であるが、「ホラ、見てください」的な内容の書き込みや写真が多くてうんざりさせられる。そのため、私は数年前から積極的に利用しなくなった。

どこまで当人が意識しているのかわからないが、自己顕示欲で満たされた内容に「お友達」が本当に「いいね」と思っているのか疑問である。

レストランで出てきた一品をSNSに載せて、「これから食べます」というのはまだ可愛いかもしれない。もちろん潜在下に「おいしそうでしょう。私はこれから頂きますよ」といった刹那的な勝利と、小さな笑みが見え隠れすることは誰しもがわかっている。

それを見た人のなかには素直に「いいなあ」と言える人もいるが、私はそこまで純朴ではない。

というのも、書くことで生計をたてているので、こうした写真や内容がプロの世界ではもっとも受けないことを心得ているつもりだからだ。

読者をうらやましがらせることほど得点の低いものはない。だから優れた書き手のエッセイはほとんどが自虐である。自分を卑下して話が成り立つのだ。

林真理子のエッセイが何十年も続くのは、自分を落とし込める術を心得ているからだ。ジャーナリスティックな内容であれば、新しい情報や視点を提供しなくてはいけない。

もちろんSNSに掲載される写真や内容がすべて自己顕示欲に満たされたものであるわけはない。だが実に多い。本当に観た人が羨むとでも思っているのだろうか。

先日、カリフォルニア州の女性弁護士が半年間の活動停止を言い渡された。というのも、自分の公式ブログにヒラリーやオバマ、俳優ジョージ・クルーニーといったセレブとのツーショットを何十枚と載せたからだ。

それらの写真はすべてがあまりにもうまく合成されたニセ写真だったのだ。ネット上で実現した夢は単なる夢でしかなく、「私はこんな有名人とお友達なのよ」という浅薄な狙いは外れた。

ただ、思うのである。

日々の生活が辛く、世間から光が射しているわけでもなく、打ちひしがれるような試練の連続を乗り越えているような人が、せめてもの光をとの思いで「お友達」に見てもらう意味で「見て見て」とイタリアン・レストランで出されたパスタの写真を載せることを否定する権利はない、と。

何をどう表現するかの自由は与えられているのだから。それでも「いいかげんにしろよ」というのも本音である。(敬称略)