オリンピックと限界(2)

先日、あることに気づいた。

ソチ五輪の競技をテレビで観ていても、胸の奥を鋭利なナイフで突かれるような衝撃を受けない自分がいるのだ。

選手のパーソナルストーリーなどは興味深いものがあるし、日本人選手がメダルを獲れば嬉しいが、競技そのものから強いインパクトが去来しない。閃光が走るような瞬間が訪れない。

なぜかと考えると、ある要因が思いあたった。世界記録が生まれていないのだ(オリンピックと限界 )。

2年前のブログでも書いたが、人間が人間である以上、過去の偉人たちが達成した世界記録を塗りかえることが難しくなっている。それはある意味で限界というものが見え始めている証拠なのかもしれない。

羽生結弦がショートプログラムで史上初の100点台をたたきだしはしたが、他の競技では18日までに世界記録は1つも生まれていない。

冬の五輪は夏と違い、スピードスケートなど限定された種目だけが過去の記録と比較できるのでしかたがないが、「世界記録が生まれましたあ!」というアナウンサーの叫び声は今回の五輪では1度も聴かれていない。

五輪記録は男子も女子もスピードスケートの500メートル等ででているが、世界新ではない。こちらの期待が高すぎるのかもしれないが、心の中には一抹の寂寥感がただよっている。(敬称略)