浅田真央の視線

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by Yasuo Ohta(友人の写真家)

ソチ五輪から帰国した浅田真央は25日、成田空港から直接、東京有楽町にある日本外国特派員協会の会見場に姿をみせた。

凜とした態度は映像で散見するのと同じで、記者の質問を真摯に受けとめて素直にこたえる。その麗質は卓球の福原愛やゴルフの石川遼に通じるものがある。

小さい頃から報道陣の対応に慣れていることもあるだろうが、終始落ち着いている。おどけたり、茶化したり、はぐらかしたりしない。

この日は10数台のテレビカメラと、会見場のほぼ最大収容人数250 に達する人で埋め尽くされたが、微動だにしなかった。

「メダルを持ってこられず、悔しい気持ちでいっぱいです」といいながらも、フリーの滑りには満足しており「今は悔いがない」と言い切った。

会見内容は大手メディアで報道された通りだが、多くの人が五輪と3月の世界選手権で引退するものと思っていた。だが現役続行の可能性を「ハーフハーフ」とした。

フリーの演技がよかったので継続もありという考え方と、メダルがとれなかったので 「今はやめたくない」という考え方が交錯したのかもしれない。

会見直前まで、継続の可能性は10%もないものと思っていただけに、「ハーフ・ハーフ」という言い回しは実質的な「ゴーサイン」と受けとった。(敬称略)

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真剣な表情で記者の質問を聞く

オリンピックと限界(2)

先日、あることに気づいた。

ソチ五輪の競技をテレビで観ていても、胸の奥を鋭利なナイフで突かれるような衝撃を受けない自分がいるのだ。

選手のパーソナルストーリーなどは興味深いものがあるし、日本人選手がメダルを獲れば嬉しいが、競技そのものから強いインパクトが去来しない。閃光が走るような瞬間が訪れない。

なぜかと考えると、ある要因が思いあたった。世界記録が生まれていないのだ(オリンピックと限界 )。

2年前のブログでも書いたが、人間が人間である以上、過去の偉人たちが達成した世界記録を塗りかえることが難しくなっている。それはある意味で限界というものが見え始めている証拠なのかもしれない。

羽生結弦がショートプログラムで史上初の100点台をたたきだしはしたが、他の競技では18日までに世界記録は1つも生まれていない。

冬の五輪は夏と違い、スピードスケートなど限定された種目だけが過去の記録と比較できるのでしかたがないが、「世界記録が生まれましたあ!」というアナウンサーの叫び声は今回の五輪では1度も聴かれていない。

五輪記録は男子も女子もスピードスケートの500メートル等ででているが、世界新ではない。こちらの期待が高すぎるのかもしれないが、心の中には一抹の寂寥感がただよっている。(敬称略)