あらためて変わる力

参議院選挙の投票日まで残り9日。日本全国で古典的な選挙運動がつづけられている。

古典的と書いたのは、候補名が刻まれたたすきを肩からかけ、誰も聴いていなくとも街角に立って拡声器でしゃべり続けるという光景が、過去何十年も変わっていないということだ。

11日午後、JR中野駅北口に元日本テレビアナウンサーの小倉淳が立っていた。中野サンモールと言われるアーケードと駅改札の間の好位置だ。

おびただしい数の通行人が通る。拡声器でしばらく話をしていたが、立ち止まる人はほとんどいない。皆無に近い。雑踏の中に生まれた虚無感が漂う。

選挙前だけでなく、政治家の多くは街頭で辻立ちをして政策や主張を訴える。誰も聴いていなくとも、がなり立てる。ほとんど自己陶酔としか思えない領域である。

小沢一郎は辻立ちが重要というが、もっと効果的な戦い方があるはずだ。少なくとも、運動員が公民館などに数百人規模で有権者を集めて話をする努力をすべきである。

選挙カーも候補の名前を連呼しつづけるだけで、ほとんど町の騒音と化している。本当に効果的なキャンペーンであるはずがない。

インターネットが使えるようにはなり、SNSの更新はできるがメールは送れないといった規制はいまだに強い。NHKの政見放送もほぼ半世紀の間、変化がない(思わず笑った政見放送 )。

どうして新しいことをするのに、これほど時間がかかるのか。

政治家は新しい局面にさしかかると、「議論したいと思います」「議論の余地があります」と言って逃げる。それは決めるまでに気の遠くなるような時間が必要であり、決めないこともあるというだ。

問題を解決するときに、議論を必要としないことも時には必要である。有能なアドバイザー数人の見識をもとに、決断するだけである。

あとは周囲を動かしていく政治力がカギだ。小さな問題が表面化することは当たり前である。そうした問題は嬉々として解決すればいい。

あらためて日本には変わる力が必要だということを痛感するのである。(敬称略)