無知であることを知る

長年モノを書いて生計をたててきた。最近あたらめて思うのは「無知の知」ということである。

ソクラテスの名前をだすまでもなく、「人は自身が何も知らないということを知ることで真理に近づける」との考え方がある。

殺人事件から大統領選挙、ビジネスの諸事情や人物のインタビュー記事まで、自分ではかなり守備範囲が広いと思っている。専門分野以外にもかなり踏み込んでいる。

それだけに、一つの分野に深く入れば入るほど、そして多くの分野に首を突っ込めば突っ込むほど「自分は何も知らない」ということを痛感させられるのである。ルネッサンス時代であればまだしも、どの領域でも世界中に専門家がいる。

その道に入って50年という人も少なくない。そんな人たちを前にすると、どうあがいてもその分野では適わないという結論にいたる。その時は静かに耳を傾けるしかない。

知らないことは恥ではなく、むしろそこから何を考え、どう社会が展開されていくかに尽力した方がはるかに賢明だとわかっていても、あまりに基本的なことも知らないと、「エッ!」と驚かれる。

たとえば美術分野の専門家にとって、フランス人のシャルダンは知っていて当たり前の画家である。いや、知らなくてはいけない人らしい。だが私は知らなかった。

だから「エッ、知らないの。それはちょっとまずいでしょう」と言われた。シャルダンと言えば、私の中では芳香剤である。

ジャン・シメオン・シャルダン。18世紀のフランスに生きた画家で、のちの印象派に大きな影響を与えた。シャルダン展が東京千代田区の三菱一号館美術館で今年1月まで開かれていた。

これほど精緻で穏やかな静物画はないかもしれない。柔らかなタッチの中に緻密さが秘められている。素人の私でさえも、「こんなにうまい静物画の書き手がいるのだろうか」と思ったほどだった。

少しだけ知ることと同時に、自分がまた知らないことを知るのである。