自分を信じるということ

アメリカの人気TV番組に「アメリカン・アイドル」という公開オーディションがある。アメリカ版のスター誕生である。

日本でもフォックス・チャンネルで視聴可能だ。すでにシーズン12に入っており、今シーズンからマライア・キャリーが審査員に加わっている。

ひさしぶりに一次審査を観た。歌のうまい下手よりも、あらためて驚かされたのはアメリカ人の自身を信じる力である。

当ブログで何度も書いているのでくどいようで申し訳ないが、私はアメリカに25年も住んでいたので、アメリカ人の一般的な気質や文化はかなりわかっているつもりである。

だが、いまさらながら、参加者たちのほとんど根拠のない自信はどこからくるのか考えさせられた。

一次審査は4人の審査員の前でアカペラで歌う。ほとんどがダメだしを受けて敗退する。

敗れたあと、「うまくないのは最初からわかっていますから」とか「出直してきます」といったコメントはほとんど聞かれない。

「なんで私が落ちたのかわからない」「審査員はきっと疲れていたのよ」「彼らの目は節穴よね」と平然といってのける。

自分は決して悪くないという姿勢を貫く。こんなに素晴らしい歌声を持っていながらなぜ理解されないのか、という態度が主流である。

最初から音程が外れていた女性の歌に、マライア・キャリーは手を震わせながら、もう聴いていられないとばかりに席を立った。それでも歌い手は自信に満ち溢れた態度でいる。

すべての参加者がそうではない。だが実に多いのだ。

私はこの気質が手に取るように理解できる。挫けない、折れない、落ち込まない人間性がDNAに刷り込まれているかのごとくなのである。

酷評されて敗退した女性は、スタジオの外で待っていた母親のもとに駆け寄る。なぜ自分が落ちたのかわからないとまくし立てた。そして母親は娘につぶやくのである。

「あなたほど綺麗な歌声をもった人をしらない。素晴らしいのよ」

それはある意味で、親が子を慰める時の教科書のような言動だった。何が起きても子を信じ、肯定的な言葉を投げて安堵を与えるのである。

逆に、こうした親の愛を受けそこねた子は「自信」という人間がもつべき心の膨らみを抱きにくい。いや膨らみどころか、心にくぼみを宿して大人になることが多い。

この「自信」はいい解釈をすれば逞しさに通じる。だが増長すると過信になり傲慢へと変わる。

少なくともマライア・キャリーやプロの歌手が「あなたは歌手を目指すのは辞めた方がいいかもしれない」とアドバイスした後、「信じられない。彼らは疲れていたのよ」とカメラの前で断言できる精神構造は日本人はほとんどもちあわせない。