核心は闇のなか

北朝鮮が12日午前、長距離ミサイルを発射した。

新聞やテレビは発射の意図と背景を必死に説明しようとしている。専門家によって解釈がそれぞれ違うので、誰も北朝鮮側の真意を言い当てていないようにも思える。

昨年4月にピョンヤンに出向いて気づいたのは、あの国は労働党幹部から一般国民にいたるまで、今年を「強盛大国」の完成年として軍事的にも経済的にも強国になるために一致団結していた点だ。

「強盛大国」という言葉が使われ始めたのは1990年代の後半で、特に過去5年ほどは今年が金日成の生誕100周年であることもあり、目標期限としてきた。いまは継続される方向にある。

現地に行って驚かされたのは、いまだに金日成があの国家では「神」であり、息子の金正日は「神の子」、孫である金正恩はまだ「坊や」という位置づけだったことだ。

その神の生誕100周年と神の子の1周忌に合わせ、ミサイルの打ち上げに成功して国民を鼓舞することが今回のミサイル発射の最大の動機だったのではないか。特に金正日の遺訓であるミサイル打ち上げを貫いたということがあの国にとっては意義がある。

国連安保理の制裁や日米からの警告などは、北朝鮮にとってはまったくの逆効果であることをそろそろ学ばないといけない。

儒教思想の国家にとって、「外のモノは邪悪で内のモノは正義」という見方は確固としたまま何十年も動くことがない。さらにメンツをたてる文化は日本以上で、今回の成功で「坊や」の顔もたてることもできた。

外圧などに決して屈してはいけないと考えることで、あの国はインターネットの時代にあって、ますます唯我独尊の境地に入りこんでいる。

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ピョンヤン市内の交差点(昨年4月)

新しい英語(4)

最初は聞き間違えかと思った。

というより英単語が子音で終わる場合、最後が聞き取れないことがある。

たとえばShot(ショット)やLevel(レベル)といった単語は、文章の中で発音されると、「ト」や「ル」の音がほとんど聞こえないことがある。

Is that coo with you?(それ、かっこよくない)

この文章のcooは本来はcoolである。だがcooと聞こえた。私が聞き取れていないのかと思っていた。

だが、省略形があった。最新のスラング辞典にはでていた。

「L」が抜け落ちているのだ。実はこの「L」という文字はなかなかのくせもので、舌を上あごにつけるので日本人にとってはなかなか発音しにくい。

「クール」よりも「クー」、、、なのである。

真っ先にやること

衆議院選挙の公示後、日本維新の会の橋下がツイッターで他党を批判した。

日本の選挙ルールではツイッターやブログなどを公示後に使用してはいけないことになっているが、今の時代にネットを使用できないと規定することの方がナンセンスである。この点で橋下の怒りは真っ当である。

規則やルールに従順な日本人は、公職選挙法第13章第142・143条に定められた「文書図画の頒布・掲示」の制限に従うべきであると考えがちだ。

だが、この法律は1950年(昭和25年)に発布されたもので、もちろんインターネットは立案者の念頭にない。

「とりあえず、ネットの使用は様子をみますか」的な事なかれ主義が官僚と議員の中にあり、60年以上前に決めたルールに長い間インターネットを閉じ込めてきた。

内情をのぞくと、2010年の参院選前に各党でネット解禁の合意がとれていたが、実現できていない。動かなければ、何もしてないに等しい。

そのほかにも選挙活動をする上で、日本の法律はあまりに縛りが多すぎて、日本社会の縮図のような気もする。自由を奪われながらというより、自らの自由を奪うことで喜びを見出すような気質があるように思えてならない。

「20年前からやるべきだった」とは言わないが、いちはやく法改正しなくてはいけない。(敬称略)

魂の遺跡

今年もいろいろな土地を旅してきた。

ふり返ると、高校一年の時に沖縄に旅にでて以来、大げさな言い方をすると「日常生活からの脱出」を絶えず試みてきたということである。

友人や伴侶と旅をしたこともあったが、基本的には一人である。いや旅は一人でないと魅力が半減する。今あらためてそう思う。

それは立ち止まる自由と突き進む自由をものにできるからである。石畳の路傍を進みながらふと歩をとめて、街の中に身を溶かす。それが20秒の時もあれば、5分の場合もある。

逆に、勝手気ままに3時間も歩きつづける時がある。それは時間を自分のものにするということである。

旅には生産性がともなわない。時間と資金を使うだけである。ところが都市での日常生活は金銭を得るための生産性が求められる。

歴史ある土地に降り立った時は、時間と空間が心の中で幾層にも折りかさなり、眼にみえない「魂の遺跡」と呼べるような残影を感じることがある。

それは何も浮遊霊といった怖気をいだかせる類いのものではない。皮膚だけで知覚する過去の厚みである。

その時ばかりは大脳はサイドラインの外側に控えてもらうしかない。

感じるだけである。それが私の旅の流儀である。

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Back street in Paris